- 2024年06月29日
車輪新調 - 2014年12月31日
大船鉾本体 胴幕 - 2013年11月09日
掛矢新調 - 2013年11月02日
車轄新調 - 2013年11月01日
大船鉾什器 鏑梃子新調
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- 2011年10月 (1)
鉾本体アーカイブ
車輪新調
2014年の巡行復帰に際して、菊水鉾様から退役となった車輪四輪をご寄贈いただき、使用させていただいておりました。しかしながら経年により傷みがひどくなってきたため、このたび新調をし、本年より装着して巡行することとなりました。直径七尺四分(2134粍)という、祇園祭山鉾史上最大級の迫力ある車輪となります。ぜひその雄姿をご高覧いただきますよう、お願い申し上げます。
飛騨高山の(有)八野大工工房にて製作中の車輪
車輪の材料であるアカガシは、10年ほど前に大船鉾保存会で購入し、
外皮を剥いて乾燥させていたものを使用
大船鉾本体 胴幕
掛矢新調
かたじけなくも平成25年祭礼中、大城加奈江様と野阪善雅様とにご寄進いただきました「掛矢」が完成いたしましたので報告申し上げます。「掛矢」とは鉾の進行を急遽止めるための道具で、鉾のブレーキとなるものです。自動車作りでも「まずはブレーキの開発から」というように、什器中の肝と言えます。囃子方をのせて11トン程になる大船鉾の安全を司るべく、常に前輪の前に沿わせて引きずります。制作を今北材木店に依頼しましたところ、脂(ねばり)のある大径国産松を芯去りにて見事に仕上げていただきました。寄進者のおふた方に感謝いたしますと共に、今北さんの労を多としたく思います。
車轄新調
平成25年の祭礼中に松久幸太郎氏一派よりご寄進いただきました、「車轄」4丁が完成いたしましたので報告申し上げます。車轄とは、車輪を車軸にはめたあと、車輪がはずれないようにかます鉄製の詮のことです。ヨドバシ展示室では目下、木製にてこれを代替しておりますが、巡行など鉾を動かす際には強度不足のため、鉄製に換えます。当町にご縁のある宮坂氏に制作を依頼、この度完成を見まして大層めでたく感じております。本巡行では、旧紋の「四」をカシラに刻した鋼鉄(くろがね)の芸術品をご披露できますので、楽しみにお待ちくださるよう、お願い申し上げます。 ※客様に車輪周辺の説明を申し上げ、鉄が使われている段にさしかかりますと、希に「意外と新しい技術が盛り込まれている」と感じられる方があります。おそらく明治中期の「官営八幡製鉄所」などのイメージにより、鉄の黎明期が近代にある錯覚かと思いますが、但し、我が国の鉄の利用は約2千年前の弥生時代からでありまして、古代よりの物でありますこと補足申し上げます。
大船鉾什器 鏑梃子新調
鉾の方向を調節する「かぶら型」の梃子、即ち鏑梃子の新調なりました。平成25年の祭礼中に平山千栄氏のご寄進をうけ制作させていただきました。雨模様の巡行時には、雨よけ障子屋根をせり出させて動かしますので、その最大幅は4250ミリに達します。その巨大な大船鉾の進路を、つつがなく守っていただけると確信できる立派なものが出来上がりましたこと、関係各位にご報告とともに厚く御礼申し上げます。
艫屋形新調
去る10月23日、新調なった艫屋形をヨドバシ展示室の大船鉾本体に組み込みました。京都ライオンズクラブ様のご寄進により、設計を末川協、制作を竹田工務店に依頼し、大船鉾町の意向を大いに反映していただいた見事な艫屋形の完成を見ました。大立者の京都ライオンズクラブ様をはじめ、関係各位の皆様に厚く御礼申し上げます。なお、来年の鉾巡行にむけ、日々着々と準備をすすめ、調度品・備品・什器類が揃わってきておりますこと、一文にて報告申し上げます。
大船鉾本装用裾幕について
多くの皆様のご支援により、本年も無事唐櫃巡行を貫徹できましたこと、簡単ですがこの場で御礼申し上げます。その巡行の模様など、お伝えしなければならないことが山積みなのですが、来年の鉾本体巡行に向け、各調度品・備品を拵えるべく奔走しております。巡行終えてから今日まででもいくつかの調度品を調進いたしました。詳しくは後日お伝え申し上げます。 さて件の裾幕ですが、大船鉾町では現在これを所有しておりませんため新調の必要があります。そこで今回、京都市立芸大の学生に図案を依頼、複数案戴き大船鉾保存会で選議・選定させていただく形で調進いたします。既に図案発注を終え、去る8月1日、図案十作を保存会に懸案いただきました。この試みは、昨今世上でよく見かけるような、「大人が学生にサービス精神でもって活動・創作の場を与え、話題作りを図る」というような軽いものでは一切ありません。何しろ、今や価値がつかないほどの江戸中後期の見事な幕で鉾の周囲をぐるりと覆うものの一翼を飾る裾幕です。次代の京都芸術壇を担うであろう若者に、早い(若い)段階で、百年・二百年と大切に扱われ、七月の晴れの場で連年本装として掛け、やがて日本の文化財になる鉾の懸装幕を拵えていただく…=本物の創作を!という念のもと依頼させていただきました。幕のテーゼをしっかり踏まえて戴き、哲学ある図案をと頼み込んだその情念が通じたのか、お世辞なく、十作どれも捨てがたいものを提案いただきました。来年のお祭りでは「とても学生が作ったとは思えぬほど地に足のついた、老獪ささえ漂う見事な本装用裾幕」をお見せできますので、皆様におかれましては健康に気をつけながら来年の披露を楽しみにしていただきたく思います。
力綱新調
去る7月3日、大船鉾では例年通り吉符入り式を厳粛に行い、町中一同で本年も祇園祭神事を貫徹する旨確認しあうことができました。暑い日が続きますので皆様お体には気をつけなされますよう…。さてこのたび三若神輿会様よりのご寄進にて大船鉾の「力綱」が完成いたしましたので、お礼とともに報告させて頂きます。この力綱は音頭取の命綱となる京組房です。色は鉄焙染シリーズを踏襲すべく黒にさせて頂きました。三若神輿会様よりのご寄贈品として、製作には万全を期し、以後永年使える「力」と「華」をもつ風合いに仕上げることができ、町中一同で大喜びいたしております。宵山飾りでご披露いたしますので、何卒ご覧下さいますようよろしくお願い申し上げます。
欄縁完成
このたび、黒主山保存会よりのご寄進により欄縁を調進させていただき、製作開始より丸1年をへて完成とあいなりました。6月9日にヨドバシ展示場にて完成披露式典を行い、町中と関係各位にその見事な出来栄えを検分いただきました。設計は末川協氏、木地の製作は竹田工務店、漆蝋色塗りは石川漆塗工房に依頼、吊金具や部材位置番付も滞りなく拵え、無事鉾に据え付けることが叶いました。今後長い年月をかけ錺金物を誂え、当代一級の美術品として300年、400年と四条町子孫に受け継いでもらえるよう大切にいたします。
大船鉾細見 天水引
天水引 ~金地雲龍文綴織~
天水引とは屋根の柱まわりを飾る織物で、最も高い位置に掛けられる事からこの名でよばれます。
作りは綴織で金糸・絹色糸を用い、画面横方向に経糸をはしらせ、小ぶりな緯糸で文様を織り出しています。これは着物の帯などと同じ製法になります。そのため鉾に掛けたときの強度はやや弱いものの、織りこみが堅牢なため200年以上経た今もあまり傷みが目立ちません。また、なべて他の鉾も同じですが唯一裏地が人目に触れることから、裏地裂も凝らしてあります。
次に絵柄ですが、金糸を地色として用い、大胆に龍を天駆けさせてあります。双方の龍とも下から見られることを意識してか、腹を多めに見せています。そして紅蓮の焔をほとばしらせます。左舷の龍は右手に如意宝珠(或いは法螺)のようなもの
を持っています。ここで面白いのは単なる玉や火焔玉でないことで、大船鉾中で数少ない仏教色を感じる衣裳です。(神仏習合の時代なので不可思議ではありません) 目線はかっと天を睨み、口を控えめながら阿形に保ち、左手と左足で力いっぱい気蓋の上を櫂でゆきます。この龍はその英気大略ぶりから通称「朝倉宗滴」と呼んでいます。右舷の龍は見返りで、何も手にしません。ただ、現状のまま右舷に掛けますと顔の向きこそ進行方向へ向きますが、体の向きはバックします。そこでひとつの仮説として、この幕の焼け具合が左舷に比べてマシなことなどと総合して、もともと裏側を表に使っているのではないかと個人的には想像します。口を閉じ静かに下方を眺めるこの龍は、その博学才穎な様子から通称「太原崇孚」と命づけています。前後の雲は基本的に同柄をめざして色を変えています。ただ綴織のため全く同じではないところも鑑賞ポイントでしょう。この幕には屋形復元設計の骨子となった「曰くつきの折れ目」があるのですが、個人的に疑問点が多く、語りつくせぬところがあります。また左右舷で長さも違いまして、こちらも謎の多いところです。是非今年のお飾り席や、来年の鉾に掛けた時に細見していただき、大船鉾を応援下さいますようお願い申し上げます。
大船鉾細見 下水引二番
下水引二番 ~金地彩雲草花文綴織~
この幕は「緋羅紗地飛魚文(下水引1番)」の平行下に掛けられる2番目の水引です。金糸を地色としていますが、現品から5歩離れ、感覚の目で鑑賞すると茶地或いは金茶地に見えます。これは時代色のせいでしょう。かような金地に連綿と雲文様を配し、これを奇貨として草花をバランスよく置いたデザインにしてあります。
作りについては綴織です。が、ただの綴織ではない事を特筆して申し上げねばなりません。それはこの幕の創作時に「ただならぬ意気込み」で作られた事を審らかにするからです。曰く、織りの方向について、長大な幅に対して緯糸を使い、20cmほどの短い丈に対して経糸を用いていることです。これは、例えば帯を織るにあたり、長尺方向に経糸を配し、短い緯糸を幾重にも織ってゆくことが自然ですが、現幕はそのアンチテーゼをゆきます。理由は明確に2つあり、①吊る方向に経糸が流れる現幕は非常に強い=鉾の幕として長持ちする、②船型の船体にあわせて幕をめぐらす際、曲線部分に雲柄をあわせる=滑らかかつ裁断なしで現幕を作れる…からです。そこに見る製作者たちの「ただならぬ意気込み」とは、その長大な幅を織る織機をあつらえる事から始めたことです。当町に於いて復興を発起する現町人のあいだでは、今なお近くに、確実にその息吹を感じる先達の意気込みを甞めて踏襲することを確認し合いました。
尚、この下水引二番は舳先部分が欠落しています。舷側部分では下水引一番の裏地(麻)裂に縫い付けて、一番二番をセットにしてあるのですが、前の一番のみ独立して存在します。え? 舳先部分の現幕は散逸したの? と思われるかもしれませんが、ちゃんと在ります。ソーダガラスの額に入れた状態で、裏地を張らず一枚裂として保存されており、毎年のお飾りに飾っております。この舳先の2番で興味深いのは、かつて裏であった部分が退色せず、新造時の原色を今に伝えてくれているところです。(綴織なので裏と表は対象になるだけで、色・柄・文様は同じです) 色鮮やかなこの水引の原色を見ると、後述します「虚ろな悲哀」が増しますので、是非一度ご覧いただきたく思います。
この幕をぼんやり見つめること1分余り…、ふと気づくとこの世の虚実混沌を忘れ、やがて「胡蝶の夢」の境地へいざなわれる…鑑賞者をそんな心持にしてくる奇妙な連彩雲柄です。その色はもう、泣きたくなるほどの悲しいブルー。誰もがもつ心中の虚空を「潤んだ悲」の感で満たします。プラトンは、「肉体は魂の牢獄」だと説き、崇高なる精神の完了形・イデヤの完全世界への旅路を是としました。後にプラトニックと仮称されるこの無感覚な精神状態こそ、この幕のメッセージと相通じるのではないかと見ています。人が食物に含まれた元素を食し、その元素が肉体に取り付き、その瞬間に古い肉体構成元素が排泄されるという循環(流動し定まらない肉体)を目の当たりにしたとき、人たるものの「私」を形成するのは「ただ不確かな記憶のみ」という絶望にひしがれ、魂は瞳孔を開いたまま茫漠の荒野に丸出しとなります。それを認識した瞬間、「私」を形成するアイデンティティがいかに儚いかを痛感するからです。その精神の苦痛から脱しようともがいた人は、「無感覚」の擬人ベアトリーチェに導かれパラダイムへ到達したダンテよろしく、或いはカニバリズムの、或いは「完全承認」の擬似快楽を経て、やがて無感覚へと至る。中世の東アジア人たちも、同じく滅ぶ肉体と永遠輪廻の魂を信じました。人類が連続模様を生み出すのは輪廻と永遠への憧れからです。古代エジプト人もユダヤ教者も秦始皇も、プロセスの違いはあれ、永遠回帰を是としました。現幕の連続文様が「雲」であるとき、それは存在の有無の掴み難い気象体ゆえ、よりいっそう、霞のような「永遠」を追う人々の「悲壮感」、を連想させます。ひとの心の不充足感(朽ちる肉体・叶わぬ願い)の恐怖を埋めるため、「せめて魂よ永遠なれ」と祈る姿がこの幕から見て取れます。
「嗚呼…惜しい哉、君」 そんな感傷にひたりつつ、巡行の朝、暁光あびてキラキラと儚く輝く現幕を早く見たい!と思います。
大船鉾細見 下水引一番
下水引一番 ~緋羅紗地波濤飛魚文肉入刺繍~
蓋し大船鉾町が所蔵する幕類衣裳の中で最も人目を引くであろう、件の下水引は文化年間の調進になります。今回はこの幕を細見してゆきます。本品は緋羅紗の大幅裂地に本金糸にて下面から六分にわたって波濤をあしらい、上面を飛魚が闊達に跳ねています。
まず羅紗を見てみましょう。時は室町末期1546年頃、南蛮人(ポルトガル人)が種子島に漂着したとき、鉄砲とともにもたらされたのが「ラーシャ」という彼らの外套でした。過酷な航海をする彼らの外套は厚手で、耐久性を要としたため1枚物の布で拵えてありました。色はコチニールという、虫をつぶして得る染料orケルメス(動物性染料)で染められ、それはもう目の覚めるような真っ赤、桃山文化の黎明期に化学反応を起こしたことは間違いありません。小早川秀秋が関ヶ原合戦で所用した「猩猩緋羅紗違い鎌文陣羽織」などは日本で用いられた羅紗の濫觴と言えるでしょう。その後も羅紗の豪奢な魅力は華を求める人々に好まれ、輸入され続けました。下水引1番に用いられている羅紗ももちろん舶来品、と言いますか国産品は明治後期以後しか存在しません。
次に波濤です。金糸を駒縫い(金駒)技法にて波濤を象っています。この刺繍部分は昭和初期に大胆な修理が施されており、文化年間のオリジナル部分と明治改修部分がはっきりしています。オリジナル部分は金の純度が低くおそらく銀が混ざっているせいで、今や鈍色となっています。また経年劣化なのかオリジンなのか不明ですが、台紙の和紙がところどころ見えてしまっています。明治改修では、留め糸が取れてしまい「うどん」状になった箇所を補作したようです。こちらは金の純度が高く新造時の輝きを今も保っているものと思われます。また、全体像として興味深いのは舳先の波が大きく、艫へいくほどに飛沫が多く細かい波に変化してゆく様子です。これは大きな船が海原をきり進む際、舳先で大きく海を割り、やがて飛沫に変わるさまをよく表しています。
最後は飛魚です。終始飛魚と申していますが、現品はどうみても「飛龍」です。四条町ではこの幕を納める箱の墨書より「飛魚」と呼ぶようにしています。神功皇后の三韓征伐時、帥船のまわりを飛魚が取り巻き道案内をした云々と記紀にあり、それがための取材と思われます。ただ、この場合「凱旋の船」というイデオロギーはどうしたの!? という疑問は残りますが…。それはさておきこの飛魚、正面に1体、左舷11体、右舷11体と合わせて23体が躍動します。これをしばらく眺めているとふいにぱしゃぱしゃと叩水音が聞こえてきて、邯鄲の枕よろしくやがて自身も居ながらにして水面に遊ぶかのような錯覚に陥る見事さです。こちらも連綿と修理が施されており、おそらく明治頃~昭和中期にかけて実にさまざまな人の手が入っていると思われます。修理を施すというのは町内大宝への愛着の念に間違いないのですが、残念ながら構図的なことに無知な人の修理あともみうけられ、原型をとどめていないもの、飛魚(飛龍)としてつじつまの合わないもの…(例えば羽際の炎が体を燃やしてしまっている等)が半数近く占めています。しかし、色糸と金糸を撚り合わせ架空のめでたい生き物に相応しい鱗やギヤマン細工の目玉など往時の迫力は失われておりません。また部分々々に綿をいれ和紙で押し肉盛を表現してあります。この盛り加減も実に繊細優美で王朝好みの京都周辺でしか見られない逸品なるかと思います。
この水引は毎年お飾りに出しております上、鉾ができたら堂々とこれを舷側に掛けて披露いたしますので、復興を応援してくださる皆様には飾り席または鉾上にてとくとご覧くださいますよう何卒よろしくお願い申し上げます。
復興完成への新調事業①欄縁製作
現在四条町大船鉾では「黒主山保存会」様より御寄進いただきまして、欄縁を製作しています。黒主山様から御寄進との事で「黒」にかかり永年残る財物を作ろうと図り欄縁新調とさせていただきました。心より御礼申し上げます。木材削り出し成型に1ヶ月、漆(蝋色塗)仕上げに10ヶ月かかります。来年のお祭りの頃にはヨドバシ展示場でご披露できると思っております。
欄縁とは船べりを取り巻き船ぶちを象る黒漆塗りの部材のことです。船以外の鉾では最近囃子方が腰掛けている部分になります(明治以降の写真に写る記録では現在のように腰掛けていますが江戸期の絵画は全て鉾の中にいすを置き外に向いて鉦・笛を囃しています)が、船鉾はさらに跳高欄がつきますのでここに腰掛ける印象はないと思います。さらにもうひとつ他の鉾と大きな違いがあります。他の鉾が「コ」の字型の部材を舞台基礎枠にはめ込んでいるのに対し、船鉾は外側から板状の部材を押しあてる形状だということです。理由は2つあり、1つは曲線の為「コ」の字型の長大な部材成型が難しいこと、2つ目は「コ」の字型にすると巡行時舞台基礎枠の継ぎ目部分が開こう開こうとします為破損するお可能性が高いことです。要するに軟構造に即した仕様ということでしょう。
さて部材材料ですがヒノキを使います。荷重のかかる構造材とは違い漆塗り仕上げを経て衣裳となる為、軽軟で素直なやさしいヒノキを使います。施工は本体木組を製作いただいた南区の竹田工務店に依頼し、現在鋭意製作中です。
そして漆塗りですが、こちらは「石川漆工房」に依頼いたしました。この石川漆工房も黒主山様とご縁のあるところで、先々年に宵山用欄縁の塗りなおしを担当されました。木部材料の仕上がりが10月末、その後漆塗り工程に入ります。塗りは祇園祭山鉾で多用される「蝋色塗」という技法で、漆黒の鏡のような仕上がりになります。鑑賞点としてはこの蝋色に顔を映して、その輪郭によどみがなくシャープなほど上品というものになります。応援してくださる皆様も是非来夏を楽しみにお待ちください。
大船鉾細見 後掛
後掛 ~紅地雲龍青海宝散文綴織~
この後掛は大船鉾の船型後部を飾るものです。個人的にこの品は大船鉾幕類懸装の中で、もっとも面白く見どころの多い稀代の一作と思っています。その面白さを皆さんと一緒に見ていけたらと思います。
まず作りは絹・金糸を用いた爪綴織で一般的に見て「紅地雲龍波濤」というデザインに入ります。しかし、メインの下り龍をこのような構図で完品とした織物をかつて見たことがありません。少し離れて見ると画面左に龍が寄っていて、右は余白のような印象を受けます。龍の顔は前掛けと同じで同一龍を狙って描いたものですが、ウロコの技法が「平櫛青海」となっており前掛けと決定的に違います。最下の青海部分では、中央の岩礁を青海波そのものが越えてしまっています(※後述)。さらに通例では中央の岩礁に向かってくる波のところを、中央を起点として外へ外へ逃げる波になっており、その波に逆らうべく龍が中央を向いています。このような辺りに反骨精神の塊のような印象をうけ、図案者が何か一言込めたかったのではないか?と感じます。
※町内の織物商さん(これらの幕のレプリカを製作なされている方です)に教えて戴き、これは俯瞰表現の1種でたまにある表現だということが判明しました。
次に、メイン龍の回りを円形に宝散らしで装飾してあります。龍を中心として1時の方角から時計回りに「玉板」「珠」「霊芝」「方勝」「丁子」「盤長」「傘」「白蓋」で龍のふところに「法螺」があります。珠は宝尽くし紋ではありません為、八宝となります。この八宝+珠で九つとなり、作者が福寿を長久希求したかと思われます。ここで気になりますのは「花輪違」ではなく「方勝」であること、「霊芝」があることです。特に霊芝は八宝といえども日本では殆ど見られないので、ひょっとしてこの幕自体が中国製か?と疑ってしまいます。
さて、この幕の面白みの最たる箇所を見てみましょう。一体この幕には生き物がいくついるでしょうか?龍が3つみえますが、実は他にもう1つ別の生き物が描かれています。画面上段左端の蝙蝠がそれです。この幕に蝙蝠がいるのは、かなり唐突な印象を受けますが、中国語で蝙蝠は「福」と同じ発音らしく、それが為、めでたい文様とされています。問題は「これを誰が入れたのか」です。この幕は調査で日本製であることが確認されています。19世紀初頭には日本でも蝙蝠文が流行ったという記録がありますが、この幕を作るに際して唐突に蝙蝠を-しかも雲間に隠して紛れ込ませるという遊びを思いついたのは誰か?四条町に渡来人がいた可能性もありますし、付近にあった平戸藩邸(外国事情に明るい)の人と親交があって「文様にこんなん入れといたら面白い!」と酒の席で盛り上がってのことかもしれませんね。ただしこの蝙蝠は他の宝紋とは区別されています。宝紋はすべて羽衣でくるまれているのに対し蝙蝠は丸裸です。まあ、蝙蝠を羽衣でくるむと「捕獲」したみたいに見えますからね。
総論としてですが、龍は「躍動」ではなく「流れ流され」という感じで雲間をゆっくりたゆたっています。珠も随分遠くにあり、それは浮き世における理想と現実の乖離をあらわしたように感じます。限界状況に嫌気がさし惰性にある龍を無理くり宝物でガードしているかのようですね。蝙蝠もあさっての方向へ飛んでいってしまい、戻って来る気配は感じられません。おまけに引き波は厄から逃れんとする脱兎を連想させ、処女のような龍と対応します。以上のことから前掛との対比観賞は最高で、「平温リビドー」とでも言うべき生の静かな躍動を含み見せイケメン龍が主張する前掛に対し、後掛は「受動的ニヒリズム」をかもし出し最終をゆく鉾の後姿を飾る幕として味のある去り方を演出します。こういう雰囲気の幕はやはりめずらしく、それだけに稀有の幕かと思いますが、なにぶんアニミズムに属する神道の国柄で天明の事象を経験したことから「自然には勝てん」と達観した挙句の一作ということにしておきましょう。後姿ということに関しては、この幕の後に緋羅紗地肉入り雲龍文の大楫がつきますので、これを引き立たせる為主張を抑えたのかもしれません。
色目ですが前掛と同じく紅花由来の紅地に金糸・色糸で龍・雲・波・宝を表現しています。蝙蝠と法螺はこげ茶or茶金、龍の火焔は薄いブルー、その他雲や岩なども殆ど青系で清涼感に満ちています。紅地の色に退色は見られますが、前掛ほど焼けてはおらずまだ色彩を残しています。これは外に出ているとき=(鉾に掛けている時)、艫屋形の下にあるため、被紫外線量が少なかったゆえと思われます。ただ、織りは前掛のほうが緻密で、後掛は傷みが目立つことが残念です。
最後に余談ですが、八百万の神々のいる日本は全国各地にさまざまな祭礼が存在します。その祭礼には数多の美術工芸幕が用いられていることでしょう。そういった幕類のレプリカ品をこしらえる事は、原品の細見調査にもつながり非常に意義の大きいことだと感じております。この記事を拝見下さった方で、祭礼幕の維持に関わられている御町でしたら是非にとお勧めしたく、勝手ながら申し上げさせていただきます。
大船鉾細見 前掛
前掛 ~紅地雲龍青海文綴織~
当大船鉾町には、本装用幕がほぼ完品で残っています。不思議と第二装が1つもないのですが、それは他頁にゆずるとして、長らく当町先達が守り、伝えてきた幕類懸装のうちから抜粋して素人目線ながら細かに観賞してみようと思います。
この前掛は舳先下部に掛けられるもので、鉾の正面をきるものです。爪綴織ですが原産は中国か日本かわかりません。図柄は中国由来の龍のいわゆる古典パターンです。ただ、龍も文様も最下の岩も線タッチが非常に柔らかく、南画のテイストが入ったかのように思えます。特筆すべきはメインの龍(通称親玉)の胴~尾で、ひねりの途中にまた軽いくびれをつくるなど凝った図柄です。とはいえ、耳と角の位置関係や体のひねりをウロコの向きで強調するなど、この手の図柄の王道技法が主流でしょう。この幕には三つの龍が描かれており、議論として「もっと大きな幕を切り取って仕立てた可能性」がいわれます。ただ私的には、大船鉾町によるあつらえの可能性が高いと思います(この場合は西陣製が確実)。理由として①この細長い箇所に完璧に収まる三つの龍のある大幅の幕を見た事が無い、②下の二匹の目線が合っている、③下の青海波~草花~雲とつじつまが完結していること、④どうみても継ぎがない、などです。しかし一点、謎となるのが画面左中やや下の巻物です。これはいわゆる「宝尽し」柄のひとつで、法輪や蓮華、法螺、白蓋などとともに散らせて描かれるもので、巻物は「智」の象徴です。これが不意にぽつんと描かれていることは深い謎です。そういう意味では大幅の可能性も拭いきれません。ところが最下の龍の口から出たような文様を霊芝あるいは丁子と見切るなら全てが完結します。曰く親玉+珠・2番目が巻物を掴もうとする・3番目が霊芝or丁子を喰らおうとする、となりますね。珠は親玉龍のくびれにあり、珠を抱き天下安んずるの意味でしょう。巻物を掴んで「智を得ようとする尊さ」、霊芝or丁子を喰らって「身体の健康」を表します。霊芝なら中国製、丁子は日本固有の宝紋(諸説あり)なので、これすなわち日本製ということになります。ここで興味深いのは巻物・霊芝or丁子に向かって腕をいっぱいに伸ばす龍の姿で、それらを得ようとする健気さをあらわすことで「自分たち(人)に備わってないものだから、鋭意これを得るべく精進しなされ、もしくはその状態におかれた人たるものの儚さを伝える」というようなメッセージを込めた幕と見ることができます。ただしこの幕の端には他にも緋幕にかくれつつ不明な宝紋らしきものが散見されるのでなお研究を要します。皆様も本番でゆっくり観賞していただきたく思います。
次に色目ですが、地色は紅花由来の緋色です。とはいえ退色の加減から推察して霰天神山後掛(濃緋)~長刀鉾見送り(前者よりやや淡い緋)ほどの色ではなくもう少し淡い(といってもほぼ赤い)ように思えます。雲は青~浅葱・緑~山吹まで多彩ですが、この図柄によくある藍や群青のようなキツい色はありません。柄の色目としては緑がかった色が多いと思います。龍の顔はおさえた金、ウロコは根本が薄グリーン、大部分が金、フチが紺~黒、炎はコクのある鮮やかな緑となっています。顔と背びれは輝くほど美しい白色で顔は薄~いブルーが覗いています。龍の手足はこげ茶と思われます。最下部の青海波はこの幕中もっともにぎやかな箇所で、五色の波に白波がのります。左からうす紅+ピンク・濃青+薄ブルー、岩を挟みグリーン+萌黄・金or黄色+山吹の波です。もっと細見したら、白い部分は縞文様になっているかもしれませんね。
簡単ですが前掛については以上です。
なお、個人蔵ですが模型にて原色その他を復元したものを作っています。本年のお祭りには披露できるかと思いますので、広くご覧頂けたらと思います。
衣裳について(総論)
衣裳というとご神体衣装とか幕類懸装品をイメージされがちですが、大船鉾では飾り物全てを総称してこのように呼んでいます。(対義語として基礎木部類及び什器を荒物と言います)
さて、大船鉾の衣裳ですが端的にいいますと「耽美的」です。まず象形文様として使われているものは「鳳凰」「龍(雲龍・飛龍・飛魚)」「雲」「波(青海・波濤・飛沫・青海岩)」「馬」の5種10パターンです。屋根破風彫刻と艫屋形幕に鳳凰、前後幕と天・下水引、大楫に龍、2番と天水引に雲、そして波が下水引・前後幕・裾幕・艫彫刻(馬を伴う※後述)にあります。こう見ますと舳先に龍頭というのはダメ押しですね。このように、瑞祥文様のなかでも王道的なものを反復使用し、あくまで「船を飾る」ということにこだわった様子は、舶来の人物画や絨毯などを用いたデカダン派の山鉾と一線を画します。
※艫屋形の額型はめ込み式の彫刻で町内呼称「海馬の彫刻(極彩色)」です。岩群青の大波上に波濤飛沫をおそらく白土で塗り、その波上に白馬(顔料はおそらく鉛白)を配置、たてがみと尾は黒~濃紺色でヒズメは金箔かと思われます。この白馬は側面に各1、背面(正面)に2匹います。四条町ではこれら3面の彫刻を探しています。アレ、これ欄間にしては小さいなぁ…と思われる額彫刻をお持ちの方、裏面に「東」とか「西」とか、文化〇〇歳~という銘などないか確認の程お願い致します。
紋章文様としては3種類で「木瓜」「巴」「五七桐」です。これは他の山鉾町と比べても変わりありません。屋根切妻部拝み・大幡・大金幣串金具・跳勾欄下幕・艫幔幕に木瓜と巴紋が多用され、艫屋形幕隅金具に桐紋が使われていました。五・七桐紋は神功皇后の象徴的な紋であるため使用されましたが、実はあまり関係がありません。わが国では源氏(清和天皇系の武家の棟梁≒征夷大将軍)の象徴紋として中世豊臣時代に認識され→徳川政権において貨幣などに多用されました。秀吉が霞のような「権威」を手にしようともがいた文禄~慶長初期の桐紋イメージが、思想的に皇族将軍→鎌倉幕府→清和源氏→八幡さまと時代をさかのぼり皇后さまの紋として定着したのではないかと思います。以後、主に幕政中枢をイメージした紋であることから現在もわが国の政府(内閣)紋章となっています。
幕類衣裳は原色地色が赤~紅/退紅色のものがほとんどで、屋根上部のうるみ漆、龍神の赤熊、勾欄の塗りなど緋色主体で構成されています。こんなに赤い鉾はおそらく長刀鉾以来でありまして、先頭と最終の意匠対比が似ていることは興味深く思っています。
上記のように赤い鉾であるとき、会所飾りの堤燈は何色だっただろうか…とか、高梁の傘は何色だっただろう…鉾の桟橋にかかる幔幕は…などと想像してまわるのは楽しいシュミです。緋色に対して映えるのは紺とか浅葱というのが昔の定番でしょう。西洋美術では緋にグレーですね。しかしココまで赤くて且つその路線が耽美的であるのなら、もはや堤燈その他のしつらえも「緋主体」で行ったらどうか?とも思います。
皆さんいいアイデアをお待ちしております。
車軸について
大船鉾本体の重量を支える車軸は現在菊水鉾さまよりお借りしたものをはめています。こちらの計画値ですが、横幅3500ミリ、240×240ミリの角材の両端を丸めた形状で、材は通常アカガシを用います。両端の丸部分は長さ840ミリ、径は根本がおよそ200ミリ、先端150ミリのテーパー状です。これは各地の山車から現在の乗用車に至るまで採用されている形状で、車輪をはめたとき「ハ」の字に「ころばせ」て重量を効率よく受け、動かした時の動揺になじみ、「まっすぐ進む」構造です。
用いる材の良し悪しを考察してみます。まず古くから用いられているのはやはりアカガシになります。これは強大な強度と堅さ、それに大径木になるといった条件が揃うからですが、昨今の進化した科学からみると、シラガシのほうが優秀だと思います。曲げ強度で双方1260(kg/cm2)と拮抗しますが、圧縮強度でアカガシ640・シロガシ720、引張強度でアカガシ1610、シラガシ2250と圧勝です。あとは固体によって「ねばり」が違ってきますが、うまく方面を図って製材すれば克服できると考えます。
鉾の部材として多用・消耗するアカガシやシラガシですが、一般的に需要が少ないため植え育てられることがめったにありません。そのため備蓄量が少なく、特に大径木は資源枯渇しています。何とか機会をみつけてこれらのカシの苗木を植えるようにしたいと思います。松井秀樹も自ら消耗するバットの材料が枯渇しないようアオダモの木を植えてるそうですからね。
この車軸に車輪をはめたとき、くさびを差して車輪が抜けないようにします。このくさびを「車轄」といい、鉄製(鋳造鉄)のものが用いられます。古文書等によると、かつてこの「車轄」は多くの町で「鉄製」と「木製」の2パターン所有しており、車掛け、曳き初め、巡行など鉾を動かす際に鉄製、宵山など留め置くときには木製が用いられました。現在では北観音山にのみ残る風習となっているようです。ヨドバシカメラの大船鉾展示では(かつての風習を守って?)木製の車轄をはめています。四条町ではこういった風習も伝承に努めてゆきたく考えております。
大金幣について
先述のとおり、文化元年(1804)に松村呉春下絵の龍頭を飾ってから10年の後、現存の大金幣が南四条町により作られました。古くは簡素な御幣を飾っていたことを鑑みると、この出来事は南四条町によるルネッサンス(復古主義)といえましょう。当時隆盛を見た「国学」もまた復古主義的なものですから、時代の流れに乗った感がありますね。
以来、龍頭と隔年に掛けられる大金幣ですがその勇姿を披瀝できたのはあまりに短い期間でした。文化10年(1814)新調披露のため当然巡行時に掛けたとして、以後1816・1818・1820・1822・1824.1826.1828・1830・1832・1834・1836・1838・1840・1842・1844・1846・1848・1850・1852・1854・1856・1858・1860・1862が南四条町の当番です。※1864年不出、どんどん焼けにより焼失、居祭をかさね現在に至る。
ところが、話をややこしくするのは不出年です。古文書にあって判っているのは1831年と1864年です。1831年は北四条町の当番で、休みました。さあ、翌1832年はどちらの担当になるのでしょうか?
上の年数から、現存大金幣の使用回数がおおよそわかります。マックスで25回ですね。かつての地道を25回巡行して1回の修理あとが確認できます。おおよそ、20年/回が一応の使用限度でしょうか?
次に、この大金幣は「どうやって鉾の舳先に掛けたか」という問題です。通常であれば町会所内で組み立てを終え、鉾への桟橋を運び舳先に掛ける手順でしょうが簡単にはいきません。屋根屋形の6本柱に遮られる為これを運ぶことはできません。会所→桟橋→鉾というのは思いのほかスペースが狭く、各山鉾町でも稚児人形やご神体をお載せするのは苦労なされています。そこへきて面積的に見送りほどの金幣を…となると、やはり舳先で組み立て・解体した可能性が高いでしょう。この大金幣を取り付ける際に使用されたであろう部材が残されていますが、その部材を見ると両端が軸になっていて鉾に取り付けたときに回転できるようになっています。文章では少しわかりづらいのが残念ですが…
。おそらく舳先でこの部材に差し込んだ幣串をいったん屋形側に倒し、幣体を取り付けたあと部材を回転させ前方に倒していったのでしょう。当大船鉾巡行復帰時の朝には、事故のないよう気をつけながらしつらえたいと思います。幣体縦2.3メートル・幅1.5メートルのこの金幣を見て毎年思う事があります。我々四条町の祖先は一体なにを思ってここまで大きい金幣をつくったのだろうか…と。これは仮に、現存するのが龍頭で大金幣を焼失していた場合、平成の時代に復元を考えた時、ここまで大きく且つ美的バランスの良いものを創り得たでしょうか?古文書に実寸記録が無いとき、遺された絵図などの資料から推察して復元しても、現物の大きさにはならないと思います。結論として、我々の祖先は今の世の人の想像をはるかに超えるスケール・意匠を舳先に施したことは間違いありません。奇跡的に残ったこの連城の値たる大宝を、すべからく将来に伝えるべきだと町中一同再確認いたしました。
車輪について
囃し方を乗せて重さ10トン近くになる大船鉾は大きな4つの車輪によって動きます。人の目線にあるその巨大な車は遠路から見物に訪れた人々のド肝をぬき、帰郷されて尚、かたごころにかかるものであることでしょう。
この車輪は中心の甑(コシキ)(ケヤキ製)・矢21本(赤樫)・小羽7枚(コバ或ショウワ)(赤樫)・大羽7枚(オオバ或オオワ)(赤樫)・鉄箍5種(テツタガ)(打ち鉄)で構成されています。
甑(コシキ):中心に軸穴をあけその大幅で以って鉾の重量を車軸より受けるものです。車輪部材のなかでここだけケヤキが用いられます。理由として、直径630ミリ、幅606ミリ程度の真円を1枚材で取らなければならない為、大径木が必要でした。樫類ではそこまでの大木がないのでケヤキが用いられます。中心の芯をくりぬいたあと、軸と接する部分の両端に鉄箍をはめます。穴中央部は大きめにくりぬかれ、軸と摩擦しないよう設計されています(606ミリにわたって軸と接すると摩擦係数が大きすぎて動かすのが困難なため)。
矢(ヤ):甑から放射状に伸びる21本のスポークです。車輪の径をかせぐための部材です。この矢が3本一組で1枚の大羽にかみます。また3本セットの両端2本は小羽を貫きます。本来源氏車の部品としては傷みにくい箇所ですが、鉾の場合はつじまわしやかぶらてこでの方向修正など「横にこじる」ことが多い為、大羽の中へ入っている細い部分が傷みます。
小羽(コバ):車輪部材として最も小さい部品です。接地消耗する大羽に対し車輪中心部からの力を緩衝するための部材です。
大羽(オオバ):接地面を構成する大きな扇型の部品です。樫類の中で大径木になる赤樫を用います。さらには樹齢300年前後の木でないと木取りすることができませんため入手困難な部材とも言えます。また乾燥途中で割れが入りやすい樹種でもあります。昔は地面が地道(土を踏み固めた道)でしたので反発が柔らかく傷みもそれなりだったでしょうがアスファルトの昨今、この消耗は非常に激しくなっています。ちなみに、御池通りに地下鉄が通っていなかったころは、コンクリート製の道でした(広い御池通りは直射日光が当たり続けることで、高温により(昔の技術の)コールタールでは柔らかくなるため)。このコンクリートはアスファルトより堅く、最も車輪泣かせな道でした。
鉄箍(テツタガ):甑の星割れ(木の中心部分から放射状に入る割れ)で材がばらけてはじけ飛ぶのを防ぐため取り付けられます。昔は打ち鉄(ウチガネ)により製作されたためよくみると表面がデコボコしていますが、最近のものは機械でつくるためツルっとしたものになっています。個人的には昔のほうが苦普請の後がにじみ出て、風合いがよいと思います。
さて、こうして作られた車輪にも鉾により若干の大きさの違いがあります。また新しくなるほど大きくなる傾向です。比較的古いものでは径が約1860ミリ、最新の大きいものでは1940ミリというのが登場しています。もちろん連年の使用で磨耗しますし、また十数年に一度修理のさい、真円を取り戻すため接地面を大胆に削ります。こういったことを踏まえて、これを寸尺で割り出すと、6.2尺(約1879ミリ)・6.3尺(約1908ミリ)・6.4尺(1938ミリ)となります。大台の6、5尺(1970ミリ)・夢の6,6尺(2000ミリ)までもう一息ですね。
この車輪は鉾建てで組み込まれたとき、1年ぶりに手入れされます。古文書には「表面を拭くのはエイの油・潤滑油には種油」とあります。「エイの油=荏の油」は荏胡麻油の事で今も町屋の建具の手入れに使いますね。種油は植物由来の種子を搾り出したもので、今で言うサラダ油になります。昨今の技術的進歩で潤滑油はグリースを使うところも増えていますが、心情としては古式を守ってゆきたいと考えています。
木部材料について
平成23年10月23日よりヨドバシカメラ内展示場で披露致しております大船鉾の基礎櫓及び舟形舞台に使われている材料についてご説明いたします。この部分は京都青年会議所の篤志により完成いたしました。
当大船鉾の基礎木部はおおまかに、四本柱(荒物)・貫12本・筋交8本・土筋交2本・虹梁2本・ハネギ4本・ハネギ支え2個・軸吊り2本・衣装柱受け枕材3本で構成されています。このうち北下・南下の貫(※後述)以外は全て三重県産の巨大なヒノキを複数用いました。特にハネギ材4本は芯持ち・それ以外は芯去りにて適材適所に組んであります。
※北下・南下の貫は基礎櫓+舟型舞台+屋根屋形+囃し方の重量を全て受ける材であるため強靭な赤樫の芯持ち材を用いています。
また舟型舞台の部材は、大引き2本・大引き受け2本・舟型欄干基礎部(片舷3本×2)・床板24枚・欄干部(片舷4つ×2)・舳(みよし)形成部・艫(とも)形成部で構成され、こちらも三重県産のヒノキの特に巨大なものを使用しております。こちらは舟型を表現する部材が多いため、カーブした部材が多数必要となります。このカーブ、すべて「削りだし」製法にて製作致しましたため、「特に大きな」材料を必要としたわけです。
さて、ヒノキについてですが特に目地の詰まったきめ細かいものを用いました。この様子は展示場内で木口(切り口)をご覧いただけますとご理解いただきやすいかと思います。木というのは1年間に1本の年輪を増やしながら成長します。この年輪と年輪の間の組織が緻密なものほど、細胞が多く密度が濃くなります。もし興味がおありでしたらホームセンターなどで日用品として売られているヒノキの切り口と比べてみてください(※後述)。密度が濃ければそれだけ材としての耐久性・耐朽性(※後述)が増し、鉾として安全な巡行をより長く行えるひとつの指標となります。目地の細かいヒノキといえば尾州檜がその白眉ですが、かといって鉾の部材にこれを多用するのは早計でしょう。尾州檜は軽軟なため鉾の激しい揺れや急ブレーキなどの衝撃に連年耐えることが難しく思います。
※ホームセンターのヒノキの名誉のために付け加えておきますが、一様にこういったヒノキが悪いということではありません。成長を促進させ多数生産し、安定した価格で我々に提供してくれることも大切な要素と言えます。
※耐朽性は水分などで材が犯され腐食することに耐える力です。目地が粗いとその分多くの水分を吸収しますので比較的腐り易くなります。また大船鉾部材では、この耐朽性をあげる為、目地方向に沿った手かんな掛けを徹底いたしました。こうすることでほとんど細胞をキズつけず、長年にわたり水をはじいてくれる事を期待しております。
当四条町としてはこれらの部材を大切に使い、我々の子から孫、曾孫、玄孫…その後のなんと呼んでよいかわからない孫たちにまで、無事渡してゆきたく思っています。またこれらの木部が一刻も早くぎしぎしと音を立て洛中を巡行する日を楽しみにしております。どうか皆様のご声援をたまわりますようよろしくお願い致します。
基礎櫓筋交について
筋交というのは鉾の基礎櫓の四面に×型に組み込んだ構造をさします。このバッテン型にうまく縄がらみを施すと、いわゆる「雄蝶」と「雌蝶」が出来上がるわけです。(現在ヨドバシカメラ内展示室でこの縄がらみはご覧いただけます。但し大船鉾は構造上4面すべて雌蝶です)
この美しい縄がらみの上に各町自慢の色鮮やかな懸装品を掛け、鉾は完成します。ただ、祇園祭がメジャーになって久しい昨今、様々な冊子やパンフレットでこのことは説明されていますよね。
当四条町ではこの縄がらみのさらに下、筋交部材の組み方にも意匠を凝らしました。筋交のバッテン型は2本のヒノキの板を単純にクロスすることで形成しています。ということは、「奥側」と「手前側」が存在することになりますよね。これを4面すべて右が手前(鉾内側)になるように致しました。もうおわかりだと思いますが、着物と同じように「右前」を意識しているわけです。(鉾本体を人に見立てての状態です)
今の展示の状態でこの意匠を確認していただくことはできません(縄がらみがあるため)が近い将来巡行参加時の鉾建ての際には是非四条町にお越しいただき、ご覧頂きたく思います。この筋交をご覧いただける予定日は201〇年7月11日午前中です。是非とも宜しくお願い致します。
部材位置示し墨書
京都駅前ヨドバシビル内展示のため、鉾建てをした日から遡ること2週間前、当保存会は各部材の位置を示す墨書を実施いたしました。
さてこの墨書、めったやたらに書けば済むものではありません。部材によっては300年の後世にも伝わるものですので、現在の町人の美的センスが問われるわけです。無論、実際巡行参加時に手伝い方(作事方の1セクションで基礎部部材を組み立て縄がらみを施す集団)にわかりよいようにしておく必要があります。
さらには、文字そのものも大変重要です。当然「よい字」を書きたいわけですが、いにしえの名書家(王羲之や三筆・三蹟)のそれは余白と濃淡を楽しむ絵画芸術に近く、部材にはめこむには系統が違います。かといってカチカチの明朝体では遊びがなくただ書いただけに終わってしまいます。
他の山鉾の部材位置書きを観察してみますと中には非常に面白いものがあります。変体仮名を使ったり、場所により字体を変えてあったり…と。これは例えば荒物櫓北面の貫が上から3本あると「北上・北中・北下」となるわけですが、上から順に草書・行書・楷書の順で書いたりするわけです。こうすると「北下」は楷書で堅く地に足がついた感じが出ますし、「北上」は草書で雲にたゆたうような感じの字を人々が夏の青空に向かって見上げることになるわけですね。昔のセンスと遊び心を感じます。
さて、大船鉾ですが筆入れを依頼しましたのは四条町ゆかりの書家「窓月庵 坐屼」先生です。そして、鉾の中心(櫓の真ん中)に立ったとき全ての位置書きが見えるようにし、統一感を持たせました。我々もなかなか機会がありませんが、部材を組み立て縄を巻く直前に櫓の中に立つと辺り一面に見事な墨書が現れ壮観で思わず息をのみます。
変体仮名や篆書を織り交ぜ、畏怖の対象たる鉾として実に見事な墨書きができたと自負しております。是非一度、ヨドバシビル内展示室にてご鑑賞下さいませ。