- 2011年11月20日
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木部材料について
大金幣について
先述のとおり、文化元年(1804)に松村呉春下絵の龍頭を飾ってから10年の後、現存の大金幣が南四条町により作られました。古くは簡素な御幣を飾っていたことを鑑みると、この出来事は南四条町によるルネッサンス(復古主義)といえましょう。当時隆盛を見た「国学」もまた復古主義的なものですから、時代の流れに乗った感がありますね。
以来、龍頭と隔年に掛けられる大金幣ですがその勇姿を披瀝できたのはあまりに短い期間でした。文化10年(1814)新調披露のため当然巡行時に掛けたとして、以後1816・1818・1820・1822・1824.1826.1828・1830・1832・1834・1836・1838・1840・1842・1844・1846・1848・1850・1852・1854・1856・1858・1860・1862が南四条町の当番です。※1864年不出、どんどん焼けにより焼失、居祭をかさね現在に至る。
ところが、話をややこしくするのは不出年です。古文書にあって判っているのは1831年と1864年です。1831年は北四条町の当番で、休みました。さあ、翌1832年はどちらの担当になるのでしょうか?
上の年数から、現存大金幣の使用回数がおおよそわかります。マックスで25回ですね。かつての地道を25回巡行して1回の修理あとが確認できます。おおよそ、20年/回が一応の使用限度でしょうか?
次に、この大金幣は「どうやって鉾の舳先に掛けたか」という問題です。通常であれば町会所内で組み立てを終え、鉾への桟橋を運び舳先に掛ける手順でしょうが簡単にはいきません。屋根屋形の6本柱に遮られる為これを運ぶことはできません。会所→桟橋→鉾というのは思いのほかスペースが狭く、各山鉾町でも稚児人形やご神体をお載せするのは苦労なされています。そこへきて面積的に見送りほどの金幣を…となると、やはり舳先で組み立て・解体した可能性が高いでしょう。この大金幣を取り付ける際に使用されたであろう部材が残されていますが、その部材を見ると両端が軸になっていて鉾に取り付けたときに回転できるようになっています。文章では少しわかりづらいのが残念ですが…
。おそらく舳先でこの部材に差し込んだ幣串をいったん屋形側に倒し、幣体を取り付けたあと部材を回転させ前方に倒していったのでしょう。当大船鉾巡行復帰時の朝には、事故のないよう気をつけながらしつらえたいと思います。幣体縦2.3メートル・幅1.5メートルのこの金幣を見て毎年思う事があります。我々四条町の祖先は一体なにを思ってここまで大きい金幣をつくったのだろうか…と。これは仮に、現存するのが龍頭で大金幣を焼失していた場合、平成の時代に復元を考えた時、ここまで大きく且つ美的バランスの良いものを創り得たでしょうか?古文書に実寸記録が無いとき、遺された絵図などの資料から推察して復元しても、現物の大きさにはならないと思います。結論として、我々の祖先は今の世の人の想像をはるかに超えるスケール・意匠を舳先に施したことは間違いありません。奇跡的に残ったこの連城の値たる大宝を、すべからく将来に伝えるべきだと町中一同再確認いたしました。