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お火焚き祭
大船鉾考証 御神体の鎧のゆくえ
「むかし船鉾は出陣の船と凱旋の船の2つあって、今残ってるのは出陣のほうだけ…」四条町界隈で生まれ育つとこう教えられます。そして必ずこう続きます、「凱旋やさかい鎧は着たはらへんねんて、よう知らんけど」
今回はこのことについて考察してみようと思います。ただ、先に申し上げますが結論は出ません(汗)
さて、まず室町期(1400年代後半頃)~江戸元禄(1600年代後半)の頃の屏風絵の、大船鉾とおぼしきものを観察すると一様に鎧を着ています。とにかくこの頃の船鉾は謎が多く、龍神が差し出す満珠・干珠を正体不明の者が盗もうとしている絵図もあるくらいです。前と後の区別があったかどうか、木組み部分が共用だった可能性・また前祭の船の巡行が終わったあと解体せず後祭に参加した可能性も無いとは言えません。1500年以前ともなれば、夜も明けきらぬ時間から順位を争って四条通り(後祭は三条通り)に繰り出したという記述があります。このとき船鉾も先陣を争ったのでしょうか?最後尾で決まっていて順位争いをしていなければ岩戸山は不利になりますね(仏光寺などを迂回すれば解決しますが)。
ちょっと話がそれました。私見として、「凱旋の船」という風流が定着しその意匠として鎧を脱いだのは天明の大火(1788)前後、もしくは文化元年(1804)の復興以降だと考えます(御霊会細記に天明罹災前の様子が書かれており詳考猶予あり)。そもそも「凱旋」(勝って帰ってくる)=「鎧を脱ぐ」というのは、戦を知らない我々には抵抗無く受け入れられますが、実際は間違いです。戦国時代最強を自負していた甲州軍団総帥、武田勝頼が長篠合戦で大敗したとき、対上杉の抑えとして領国留守預かりをしていた名将高坂昌信はほうほうのていで帰ってきた主君を信濃国境・伊那に出迎え、領内を不安にさせないよう新しい具足に着替えさせ凱旋を装いました。凱旋で鎧を脱ぐなどという風習は古今東西ありません。つまり、戦乱の世~元和偃武の頃までは大船鉾神功皇后も一般常識的に鎧を着ていたはずです。それから200余年、太平の世の戦を知らない町衆が鎧を脱がせたんだと考えます。
毎度おなじみですが、当四条町ではかつてご神体に着せていた4人分の具足を探しております。時代考証としてまず間違いなく平安末~室町期の「大鎧」で大袖・草摺(平らなもの)付き、絵図から推察して兜は無かったものと考えています。「あれ、そういえばうちの蔵に大鎧あったな~」という方、その鎧に五・三桐紋があり、「四條町ご神体御鎧」などと銘などありましたら当町にとって貴重な資料になる可能性があります。是非ともご一報下さいます様よろしくお願い申し上げます。