- 2011年11月17日
車輪について - 2011年11月16日
大船鉾考証 御神体の鎧のゆくえ - 2011年11月15日
木部材料について - 2011年11月13日
大船鉾考証 最後尾の意味 - 2011年11月12日
お火焚き祭
大船鉾考証 最後尾の意味
「長刀が先頭、べったが船鉾、あとは籤で決めるんや」 山鉾町界隈に住んでいれば幼いころに1度は聞くであろう文言ですね。そう聞いた子供は程なく山鉾巡行を目のあたりにして、山鉾の迫力に圧倒されながら巡行順を確認し、いつの間にか「船鉾=最終」を違和感なく受けいれてゆきます。
「べったは船…」「最終を飾る船…」あまりにも常套句化していますが、ちょっと待って下さい。なぜ最終が「船」でなければならないのか?疑問を呈したことはありませんでしょうか。前祭も後祭も最終が「船」でなければならない理由。7日も14日もその船に神功皇后をお祀りする理由。なんだか謎ですね。四条町ではこの問いに対し、大胆な仮説を打ち立てています。
山鉾の起源は御霊会です。夏の盛りにおそらく食べ物由来の疫病が蔓延し、バタバタと人が倒れてゆく状態を悪霊の仕業と見切り、その悪霊を強い清浄で打ち払うべく祗園御霊会が始まりました。手順はおおよそ次の通りです。①悪霊を神剣でなぎ払いある程度きれいにしておく(前祭=長刀鉾※後述)、②祗園社から3神をお迎えし(神幸祭)、本格的に都を浄化していただく(お旅所の7日間)、③浄化完了後、3神がお帰りする道を露払いする(後祭)、④3神が祗園社にお帰りなさる(還幸祭)、以上です。
①の作業において、厳密に意味をなすのは昔も今も長刀鉾のみです。三条小鍛冶の大長刀が悪霊をなぎ祓う、屋根につく外向きの鯱で邪を祓う、蛙股の彫刻「厭舞」も似た理由でしょう。それ以外の山鉾は、故事や神話に基づき鉾頭や意匠が成されていることを考えると、正当に悪霊を祓えるのはやはり長刀鉾だけです。
さてここから、前祭のしんがりを飾る船鉾ですが、「船」は水を進むためのものですね。かつて巡行コースは「四条通り東行」→「寺町南行」です。これは物理的な話で、通り唄にあるとおり「寺・御幸・麩屋・富」で鴨川以西の最初の通りは寺町通りで、現在の河原町通りなどなく、そこはただ一面の河原でありました(この鴨川西岸を京極=京のきわみといいました)。大きな山鉾は地道といえども整備された道路しか進めず、また鴨川が神域との境界であったことからそれ以上進むことをはばかりました。
ところが最終の「船」だけはこのことに当てはまりません。当然浮き世のものなので寺町を南行しましたが、レーゾンデートルとして川を渡るものではないか、と考えます。「鴨川を渡る=神域へ入る」、神域へ入った船鉾は何をするのでしょう?神様を直々に道案内するのでしょうか?否。このとき船は3神の神器(神様たちの大切な道具)を運ぶ役目だったと考えます。その神器は大切に甕のようなものに入れられていました。この凄く大切な甕を大事に大事に市中にお運びする時、人は懐にその甕を抱いて決して失くさぬようお守りします。
もうお気づきでしょうか?神功皇后が妊娠して海を渡り、勝って(お腹を膨らませて)返ってきて無事応神天皇を出産される様子はまさに大事な神器の甕を抱えて(懐を膨らませて)市中に運ぶ様子とそっくりではありませんか?
こうなれば当大船鉾の役割は決まってきます。先の船鉾が持って来た神器を、今度は後祭でただ1基鴨川を渡り、無事祗園社にお戻しするのが役目でしょう。
では次に、いつから御神体が神功皇后に変わったのか?について考えてみたいと思います。…が、これは結論からいって最初からでしょう。正確には嘉吉元年(1441)、船の形に車輪をつけた形態になったときには皇后様がご祭神であったと思います。しかしこれ以前のことが重要だと考えます。「神泉苑」、これをぬきに祇園祭は語れないでしょう。
貞観11年(869)、「御池通り」の由来となる大きな大きな泉(神泉苑)に66本の鉾(剣鉾)を打ちたて、「御霊会」なるものがひっそりと行われたようです。この神泉苑での儀式は今のところ詳細がわかっていません。一体なにをやっていたのでしょうか?①剣鉾は水辺に立てたのか?それともほとりの陸部に立てたのか?②泉で儀式をやる意味は?③このとき泉に「船」は浮いていたか…。
先ほど鴨川の水は「結界」だと申しました。「水引」の語源のとおり、水を四方にめぐらせて結界を結ぶ考え方です。そしてその流れる「水」はとても強い「清浄」の象徴だったことでしょう。であれば神泉苑は悪霊祓いのステージとしてうってつけです。さらには、悪霊退散のために泉の水の清浄パワーをフル活用したことが考えられます。使い方は大きくわけて2パターンあるはずです。①悪霊にむけてこの水を浴びせる(祓い)②悪霊を1つにたばね詰め込んで水に沈めてしまう(封印)
私的には②だと考えます。①の祓いは剣鉾の役目とするのが妥当でしょう。そして②の場合、必然的に船が必要となります。水辺から腕の届く範囲の浅瀬に悪霊を沈めてもなんだか不安ですからね。やはり水深の深いところへドボンとやりたくなるのが人情でしょう。
長くなりましたが、とにかく起源とされる「秘密儀式」のときから、鉾と船がセットだったのではないか?という四条町の考察です。またの機会にもう少し掘り下げた内容を載せたく思います。