- 2013年03月02日
京都ライオンズクラブ様のご寄贈 - 2013年02月22日
大船鉾細見 下水引二番 - 2013年02月02日
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新年明けましておめでとうございます - 2012年12月21日
大船鉾細見 下水引一番
大船鉾細見 下水引二番
下水引二番 ~金地彩雲草花文綴織~
この幕は「緋羅紗地飛魚文(下水引1番)」の平行下に掛けられる2番目の水引です。金糸を地色としていますが、現品から5歩離れ、感覚の目で鑑賞すると茶地或いは金茶地に見えます。これは時代色のせいでしょう。かような金地に連綿と雲文様を配し、これを奇貨として草花をバランスよく置いたデザインにしてあります。
作りについては綴織です。が、ただの綴織ではない事を特筆して申し上げねばなりません。それはこの幕の創作時に「ただならぬ意気込み」で作られた事を審らかにするからです。曰く、織りの方向について、長大な幅に対して緯糸を使い、20cmほどの短い丈に対して経糸を用いていることです。これは、例えば帯を織るにあたり、長尺方向に経糸を配し、短い緯糸を幾重にも織ってゆくことが自然ですが、現幕はそのアンチテーゼをゆきます。理由は明確に2つあり、①吊る方向に経糸が流れる現幕は非常に強い=鉾の幕として長持ちする、②船型の船体にあわせて幕をめぐらす際、曲線部分に雲柄をあわせる=滑らかかつ裁断なしで現幕を作れる…からです。そこに見る製作者たちの「ただならぬ意気込み」とは、その長大な幅を織る織機をあつらえる事から始めたことです。当町に於いて復興を発起する現町人のあいだでは、今なお近くに、確実にその息吹を感じる先達の意気込みを甞めて踏襲することを確認し合いました。
尚、この下水引二番は舳先部分が欠落しています。舷側部分では下水引一番の裏地(麻)裂に縫い付けて、一番二番をセットにしてあるのですが、前の一番のみ独立して存在します。え? 舳先部分の現幕は散逸したの? と思われるかもしれませんが、ちゃんと在ります。ソーダガラスの額に入れた状態で、裏地を張らず一枚裂として保存されており、毎年のお飾りに飾っております。この舳先の2番で興味深いのは、かつて裏であった部分が退色せず、新造時の原色を今に伝えてくれているところです。(綴織なので裏と表は対象になるだけで、色・柄・文様は同じです) 色鮮やかなこの水引の原色を見ると、後述します「虚ろな悲哀」が増しますので、是非一度ご覧いただきたく思います。
この幕をぼんやり見つめること1分余り…、ふと気づくとこの世の虚実混沌を忘れ、やがて「胡蝶の夢」の境地へいざなわれる…鑑賞者をそんな心持にしてくる奇妙な連彩雲柄です。その色はもう、泣きたくなるほどの悲しいブルー。誰もがもつ心中の虚空を「潤んだ悲」の感で満たします。プラトンは、「肉体は魂の牢獄」だと説き、崇高なる精神の完了形・イデヤの完全世界への旅路を是としました。後にプラトニックと仮称されるこの無感覚な精神状態こそ、この幕のメッセージと相通じるのではないかと見ています。人が食物に含まれた元素を食し、その元素が肉体に取り付き、その瞬間に古い肉体構成元素が排泄されるという循環(流動し定まらない肉体)を目の当たりにしたとき、人たるものの「私」を形成するのは「ただ不確かな記憶のみ」という絶望にひしがれ、魂は瞳孔を開いたまま茫漠の荒野に丸出しとなります。それを認識した瞬間、「私」を形成するアイデンティティがいかに儚いかを痛感するからです。その精神の苦痛から脱しようともがいた人は、「無感覚」の擬人ベアトリーチェに導かれパラダイムへ到達したダンテよろしく、或いはカニバリズムの、或いは「完全承認」の擬似快楽を経て、やがて無感覚へと至る。中世の東アジア人たちも、同じく滅ぶ肉体と永遠輪廻の魂を信じました。人類が連続模様を生み出すのは輪廻と永遠への憧れからです。古代エジプト人もユダヤ教者も秦始皇も、プロセスの違いはあれ、永遠回帰を是としました。現幕の連続文様が「雲」であるとき、それは存在の有無の掴み難い気象体ゆえ、よりいっそう、霞のような「永遠」を追う人々の「悲壮感」、を連想させます。ひとの心の不充足感(朽ちる肉体・叶わぬ願い)の恐怖を埋めるため、「せめて魂よ永遠なれ」と祈る姿がこの幕から見て取れます。
「嗚呼…惜しい哉、君」 そんな感傷にひたりつつ、巡行の朝、暁光あびてキラキラと儚く輝く現幕を早く見たい!と思います。