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復興事業近況
大船鉾細見 下水引一番
下水引一番 ~緋羅紗地波濤飛魚文肉入刺繍~
蓋し大船鉾町が所蔵する幕類衣裳の中で最も人目を引くであろう、件の下水引は文化年間の調進になります。今回はこの幕を細見してゆきます。本品は緋羅紗の大幅裂地に本金糸にて下面から六分にわたって波濤をあしらい、上面を飛魚が闊達に跳ねています。
まず羅紗を見てみましょう。時は室町末期1546年頃、南蛮人(ポルトガル人)が種子島に漂着したとき、鉄砲とともにもたらされたのが「ラーシャ」という彼らの外套でした。過酷な航海をする彼らの外套は厚手で、耐久性を要としたため1枚物の布で拵えてありました。色はコチニールという、虫をつぶして得る染料orケルメス(動物性染料)で染められ、それはもう目の覚めるような真っ赤、桃山文化の黎明期に化学反応を起こしたことは間違いありません。小早川秀秋が関ヶ原合戦で所用した「猩猩緋羅紗違い鎌文陣羽織」などは日本で用いられた羅紗の濫觴と言えるでしょう。その後も羅紗の豪奢な魅力は華を求める人々に好まれ、輸入され続けました。下水引1番に用いられている羅紗ももちろん舶来品、と言いますか国産品は明治後期以後しか存在しません。
次に波濤です。金糸を駒縫い(金駒)技法にて波濤を象っています。この刺繍部分は昭和初期に大胆な修理が施されており、文化年間のオリジナル部分と明治改修部分がはっきりしています。オリジナル部分は金の純度が低くおそらく銀が混ざっているせいで、今や鈍色となっています。また経年劣化なのかオリジンなのか不明ですが、台紙の和紙がところどころ見えてしまっています。明治改修では、留め糸が取れてしまい「うどん」状になった箇所を補作したようです。こちらは金の純度が高く新造時の輝きを今も保っているものと思われます。また、全体像として興味深いのは舳先の波が大きく、艫へいくほどに飛沫が多く細かい波に変化してゆく様子です。これは大きな船が海原をきり進む際、舳先で大きく海を割り、やがて飛沫に変わるさまをよく表しています。
最後は飛魚です。終始飛魚と申していますが、現品はどうみても「飛龍」です。四条町ではこの幕を納める箱の墨書より「飛魚」と呼ぶようにしています。神功皇后の三韓征伐時、帥船のまわりを飛魚が取り巻き道案内をした云々と記紀にあり、それがための取材と思われます。ただ、この場合「凱旋の船」というイデオロギーはどうしたの!? という疑問は残りますが…。それはさておきこの飛魚、正面に1体、左舷11体、右舷11体と合わせて23体が躍動します。これをしばらく眺めているとふいにぱしゃぱしゃと叩水音が聞こえてきて、邯鄲の枕よろしくやがて自身も居ながらにして水面に遊ぶかのような錯覚に陥る見事さです。こちらも連綿と修理が施されており、おそらく明治頃~昭和中期にかけて実にさまざまな人の手が入っていると思われます。修理を施すというのは町内大宝への愛着の念に間違いないのですが、残念ながら構図的なことに無知な人の修理あともみうけられ、原型をとどめていないもの、飛魚(飛龍)としてつじつまの合わないもの…(例えば羽際の炎が体を燃やしてしまっている等)が半数近く占めています。しかし、色糸と金糸を撚り合わせ架空のめでたい生き物に相応しい鱗やギヤマン細工の目玉など往時の迫力は失われておりません。また部分々々に綿をいれ和紙で押し肉盛を表現してあります。この盛り加減も実に繊細優美で王朝好みの京都周辺でしか見られない逸品なるかと思います。
この水引は毎年お飾りに出しております上、鉾ができたら堂々とこれを舷側に掛けて披露いたしますので、復興を応援してくださる皆様には飾り席または鉾上にてとくとご覧くださいますよう何卒よろしくお願い申し上げます。