- 2011年11月27日
車軸について - 2011年11月24日
出囃子 - 2011年11月24日
復興事業について - 2011年11月20日
大船鉾考証 巡行のタイムスケジュール - 2011年11月19日
大金幣について
2011年11月アーカイブ
車軸について
大船鉾本体の重量を支える車軸は現在菊水鉾さまよりお借りしたものをはめています。こちらの計画値ですが、横幅3500ミリ、240×240ミリの角材の両端を丸めた形状で、材は通常アカガシを用います。両端の丸部分は長さ840ミリ、径は根本がおよそ200ミリ、先端150ミリのテーパー状です。これは各地の山車から現在の乗用車に至るまで採用されている形状で、車輪をはめたとき「ハ」の字に「ころばせ」て重量を効率よく受け、動かした時の動揺になじみ、「まっすぐ進む」構造です。
用いる材の良し悪しを考察してみます。まず古くから用いられているのはやはりアカガシになります。これは強大な強度と堅さ、それに大径木になるといった条件が揃うからですが、昨今の進化した科学からみると、シラガシのほうが優秀だと思います。曲げ強度で双方1260(kg/cm2)と拮抗しますが、圧縮強度でアカガシ640・シロガシ720、引張強度でアカガシ1610、シラガシ2250と圧勝です。あとは固体によって「ねばり」が違ってきますが、うまく方面を図って製材すれば克服できると考えます。
鉾の部材として多用・消耗するアカガシやシラガシですが、一般的に需要が少ないため植え育てられることがめったにありません。そのため備蓄量が少なく、特に大径木は資源枯渇しています。何とか機会をみつけてこれらのカシの苗木を植えるようにしたいと思います。松井秀樹も自ら消耗するバットの材料が枯渇しないようアオダモの木を植えてるそうですからね。
この車軸に車輪をはめたとき、くさびを差して車輪が抜けないようにします。このくさびを「車轄」といい、鉄製(鋳造鉄)のものが用いられます。古文書等によると、かつてこの「車轄」は多くの町で「鉄製」と「木製」の2パターン所有しており、車掛け、曳き初め、巡行など鉾を動かす際に鉄製、宵山など留め置くときには木製が用いられました。現在では北観音山にのみ残る風習となっているようです。ヨドバシカメラの大船鉾展示では(かつての風習を守って?)木製の車轄をはめています。四条町ではこういった風習も伝承に努めてゆきたく考えております。
出囃子
少し以前に遡りますが、10月14日に伊賀上野へ出囃子に行ってきました。これは三重県伊賀庁舎が伊賀で活躍する芸術家などの発表の場をつくり、地域のひとびとが文化芸術に触れる機会を提供するために行われている「伊賀県民センターロビーコンサート」への出演でした。ところで何故伊賀で祇園囃子なのでしょうか。それは伊賀上野天神祭の楼車の上で囃される囃子が京都から伝播した祇園囃子だからで、今回は「祇園囃子・京から伊賀へ」というテーマの企画でした。そんなとこへまだ巡行に参加もしていない大船鉾が行かせてもらってええんやろか?との思いもありましたが、せっかくの機会を頂戴したのですからいっしょうけんめい頑張らせていただこうと寄せていただきました。平日でしたので少人数での出囃子となりましたが、ロビーコンサートという限られたスペースでの演奏なのでちょうど良かったかもしれません。
当日は平日の昼間という条件にもかかわらず多くの方が聴きに来られていました。翌日から「全国山・鉾・屋台連合会」の総会が伊賀上野で行われということもあって上野天神祭の囃子方のみなさんもビデオカメラ持参で来ておられました。はたして私どもの演奏がお役に立てたのかどうか不安ですが、良い経験の機会を与えてくださったと感謝しております。
お囃子の合間に、地元上野天神祭の囃子方であり祇園囃子の研究家である増田氏が解説をしてくださいました。
復興事業について
復興事業についての説明が現在のところ復興事業のページでは不十分でございますので、補足させていただきます。
「復興事業ご支援のお願い」でございます。
~祇園祭山鉾巡行への復帰に向けて~
このたび、私共四条町大船鉾保存会は150年ぶりに「大船鉾」を復興し、祇園祭山鉾巡行への復帰を目指す事を決意いたしました。
大船鉾は祇園祭の山鉾のひとつであり、四条町(新町四条下る)に所在し、その由来は応仁の乱以前に遡る事ができ、幕末まで後祭のしんがりを巡行いたしておりました。
幕末元治元年(1864年)の「蛤御門の変」による大火に罹災し鉾の木部構造部分一切を焼失して以降、鉾復興はならず、焼失を免れた御神体をお祀りし、装飾品をお飾りする「居祭り」を続けてまいりました。平成9年(1997年)におよそ130年ぶりに囃子の復活・披露、平成19年(2007年)には明治維新以前の装飾品一式(121点)が京都市の有形民俗文化財に指定されました。さらに、平成21年「祇園祭の山鉾行事」がユネスコの世界無形遺産に登録され、私共大船鉾も登録に加えていただいたのを機に鉾復興に向けての気運が一気に盛り上がりました。
同じ頃京都市より、世界無形遺産登録を記念して新設する京都市無形文化遺産展示室に大船鉾の模擬鉾を製作し展示したいという話がもたらされました。私共は模擬鉾を今後の復興事業のシンボルにと大喜び致しましたが、その後の有識者による展示検討委員会で「作るなら本物でなければならない。復興の過程を展示するのがよい。」という決定が出ました。展示室開設記者会見では、模擬鉾に関する費用を展示室の設備として京都市が負担すると発表されましたが、展示する大船鉾が模擬鉾から復興鉾に変更となり、鉾本体の製作費全てを私共保存会が支払う事となりました。私共の資金力では櫓を製作するのが精一杯でしたが、社団法人京都青年会議所が創立60周年記念事業として私共の復興事業に対し支援を申し出下さいました。施工をお願いした(株)竹田工務店のご努力も頂き、平成23年(2011年)10月、櫓・船体木部分完成披露、常設展示も始まり、復興事業の第一歩を踏み出すに至りました。
私共では復興事業に先立ち平成22年(2010年)4月に財団法人化、同年10月には公益財団法人の認定を頂き、組織の公明化、強化に努めて参りました。これは、過去幾度も復興支援のお申し出を頂きながら、受け入れ体制が整っていないが為にお断りせざるを得なかった苦い経験を鑑みてであります。
大船鉾保存会一同の目的は「大船鉾祭事を未来永劫のものにする事」です。平成7年(1995年)に一度祭事が途絶えそうになった危機的状況を回避した私共は、その後立ち上げました大船鉾祭事振興協議会という勉強会で「鉾」という存在こそがその目的を可能にすると確信するに至りました。また、大船鉾の復興が、祇園祭、京都、日本の振興に必ず繋がると確信致します。
大船鉾再建には第1段階としておよそ1億2000万円が必要と見積もりました。櫓・船体部分は完成しましたが、まだ第一歩を踏み出したに過ぎず、平成26年(2014年)の復興・巡行復帰実現には、募金によるさらなるご支援を幅広くお願い致しますと共に、今後も関係各位に対しご指導ご協力のお願いにまいる所存です。
何卒皆様方のご支援お願い申し上げます。
公益財団法人 四条町大船鉾保存会
申込用紙を御利用下さい。http://www.ofunehoko.jp/info/
FAXまたは郵送でお願い致します。
メールでのお申込みは申込用紙の項目をtoiawase@ofunehoko.jpまでお送り下さい。
一口1000円 芳名永久保存(10口一万円以上記念品、1000口百万円以上鉾部材に芳名記載)
郵便振替の場合のみ払込取扱票にご氏名・ご住所・電話番号をお書き下されば申込書は不要です。
カード御利用の場合、情報伝達にメールを御利用なさらないで下さい。(法律で禁止されています)
宛先 FAX (075)361-8130 600-8441 京都市下京区新町通四条下る四条町359-1
(ご篤志は寄付金控除の対象となります。)
よろしくお願い申し上げます。
大船鉾考証 巡行のタイムスケジュール
現在行われている形態の山鉾巡行に大船鉾が加わったらどのようになるか?これは当町のみならず他の山鉾町さまもうすうす気にかけられていることでしょう。
「四条新町下ル」町に建てた大船鉾は、巡行の最後尾を飾るといえどものんびり出発するわけではありません。道幅6,8メートル(-電柱スペース1.5メートル=実質5・3メートル)の通りに車軸幅3、5メートルの鉾が建っているわけですから、後(南)にある船鉾・岩戸山は大船鉾を追い抜くことができません。通り道をあけるためいち早く出発することとなります。
まず初めの問題は四条新町の辻まわしです。出発地点からおよそ100メートル、曳き出してからものの2分で到着する四条新町の辻ですが現在は放下鉾が1番に行っています。その放下鉾は9:00すぎに町内を出発なされ、9:15には祗園社の方向に向きを変えています。さて、当大船鉾の辻まわしは放下鉾より前でしょうか後でしょうか?巡行順からみて、放下鉾より後でよいと思うのですが、ひとつ問題があります。巡行順で放下鉾の後は岩戸山です。となると、①放下鉾②大船鉾(郭巨山のあたりまでバック)③船鉾(大船鉾待機場所の手前までバック)④岩戸山の順になり、すなわち放下鉾・岩戸山の間が50分もあくことになります。これを是としない場合、大船鉾は放下鉾より前に辻まわしを終え、郭巨山のあたりで長らく待機することになりますね。
放下鉾の前となると、8:45町内南限を出発することになります。そして9:00すぎまでには辻まわしを終え、四条新町をあけねばなりません。それからの待機時間はいかほどでしょうか?大船鉾が四条通りを東へ進めるのは北観音山が辻まわしを終え、南観音山が東進した後になります。南観音山東進の時間は10:50ごろですので…大船鉾はほとんど11:00になりますね。ざっと2時間、郭巨山町さんで待機させていただくことになります。
このあとは南観音山の後について巡行するのですが、御池新町で再び順番変えがあります。新町通りには、大船鉾はなんとしても放下鉾・北観音山・南観音山より先に入らねば四条町に帰って来られません。よって大急ぎで御池通りを駆け抜け、船鉾の後につく必要があります。どのぐらいの駆けっぷりかというと、現在巡行で船鉾が新町に入ってゆくのが13:10。大船鉾が河原町御池を出発するのが13:15。スタート時点からすでに遅刻しているのですね。御池通りで一切休憩せず、他の山鉾さんたちに「大船鉾が早く行ってくれなみんな帰られへん」と囁かれつつ13:55ごろ新町を南下、帰町は14:30と思われます。
ということで大船鉾巡行は8:45~14:30まで5時間45分に及びます。長刀鉾の巡行時間が3時間50分ほどですので相当長い巡行時間といえるでしょう。「休み山鉾」という無罪モラトリアムから抜け出す今、こういったこともマジメに考えていかねばなりません。是非ともご支援のほど宜しくお願いいたします。
大金幣について
先述のとおり、文化元年(1804)に松村呉春下絵の龍頭を飾ってから10年の後、現存の大金幣が南四条町により作られました。古くは簡素な御幣を飾っていたことを鑑みると、この出来事は南四条町によるルネッサンス(復古主義)といえましょう。当時隆盛を見た「国学」もまた復古主義的なものですから、時代の流れに乗った感がありますね。
以来、龍頭と隔年に掛けられる大金幣ですがその勇姿を披瀝できたのはあまりに短い期間でした。文化10年(1814)新調披露のため当然巡行時に掛けたとして、以後1816・1818・1820・1822・1824.1826.1828・1830・1832・1834・1836・1838・1840・1842・1844・1846・1848・1850・1852・1854・1856・1858・1860・1862が南四条町の当番です。※1864年不出、どんどん焼けにより焼失、居祭をかさね現在に至る。
ところが、話をややこしくするのは不出年です。古文書にあって判っているのは1831年と1864年です。1831年は北四条町の当番で、休みました。さあ、翌1832年はどちらの担当になるのでしょうか?
上の年数から、現存大金幣の使用回数がおおよそわかります。マックスで25回ですね。かつての地道を25回巡行して1回の修理あとが確認できます。おおよそ、20年/回が一応の使用限度でしょうか?
次に、この大金幣は「どうやって鉾の舳先に掛けたか」という問題です。通常であれば町会所内で組み立てを終え、鉾への桟橋を運び舳先に掛ける手順でしょうが簡単にはいきません。屋根屋形の6本柱に遮られる為これを運ぶことはできません。会所→桟橋→鉾というのは思いのほかスペースが狭く、各山鉾町でも稚児人形やご神体をお載せするのは苦労なされています。そこへきて面積的に見送りほどの金幣を…となると、やはり舳先で組み立て・解体した可能性が高いでしょう。この大金幣を取り付ける際に使用されたであろう部材が残されていますが、その部材を見ると両端が軸になっていて鉾に取り付けたときに回転できるようになっています。文章では少しわかりづらいのが残念ですが…
。おそらく舳先でこの部材に差し込んだ幣串をいったん屋形側に倒し、幣体を取り付けたあと部材を回転させ前方に倒していったのでしょう。当大船鉾巡行復帰時の朝には、事故のないよう気をつけながらしつらえたいと思います。幣体縦2.3メートル・幅1.5メートルのこの金幣を見て毎年思う事があります。我々四条町の祖先は一体なにを思ってここまで大きい金幣をつくったのだろうか…と。これは仮に、現存するのが龍頭で大金幣を焼失していた場合、平成の時代に復元を考えた時、ここまで大きく且つ美的バランスの良いものを創り得たでしょうか?古文書に実寸記録が無いとき、遺された絵図などの資料から推察して復元しても、現物の大きさにはならないと思います。結論として、我々の祖先は今の世の人の想像をはるかに超えるスケール・意匠を舳先に施したことは間違いありません。奇跡的に残ったこの連城の値たる大宝を、すべからく将来に伝えるべきだと町中一同再確認いたしました。
車輪について
囃し方を乗せて重さ10トン近くになる大船鉾は大きな4つの車輪によって動きます。人の目線にあるその巨大な車は遠路から見物に訪れた人々のド肝をぬき、帰郷されて尚、かたごころにかかるものであることでしょう。
この車輪は中心の甑(コシキ)(ケヤキ製)・矢21本(赤樫)・小羽7枚(コバ或ショウワ)(赤樫)・大羽7枚(オオバ或オオワ)(赤樫)・鉄箍5種(テツタガ)(打ち鉄)で構成されています。
甑(コシキ):中心に軸穴をあけその大幅で以って鉾の重量を車軸より受けるものです。車輪部材のなかでここだけケヤキが用いられます。理由として、直径630ミリ、幅606ミリ程度の真円を1枚材で取らなければならない為、大径木が必要でした。樫類ではそこまでの大木がないのでケヤキが用いられます。中心の芯をくりぬいたあと、軸と接する部分の両端に鉄箍をはめます。穴中央部は大きめにくりぬかれ、軸と摩擦しないよう設計されています(606ミリにわたって軸と接すると摩擦係数が大きすぎて動かすのが困難なため)。
矢(ヤ):甑から放射状に伸びる21本のスポークです。車輪の径をかせぐための部材です。この矢が3本一組で1枚の大羽にかみます。また3本セットの両端2本は小羽を貫きます。本来源氏車の部品としては傷みにくい箇所ですが、鉾の場合はつじまわしやかぶらてこでの方向修正など「横にこじる」ことが多い為、大羽の中へ入っている細い部分が傷みます。
小羽(コバ):車輪部材として最も小さい部品です。接地消耗する大羽に対し車輪中心部からの力を緩衝するための部材です。
大羽(オオバ):接地面を構成する大きな扇型の部品です。樫類の中で大径木になる赤樫を用います。さらには樹齢300年前後の木でないと木取りすることができませんため入手困難な部材とも言えます。また乾燥途中で割れが入りやすい樹種でもあります。昔は地面が地道(土を踏み固めた道)でしたので反発が柔らかく傷みもそれなりだったでしょうがアスファルトの昨今、この消耗は非常に激しくなっています。ちなみに、御池通りに地下鉄が通っていなかったころは、コンクリート製の道でした(広い御池通りは直射日光が当たり続けることで、高温により(昔の技術の)コールタールでは柔らかくなるため)。このコンクリートはアスファルトより堅く、最も車輪泣かせな道でした。
鉄箍(テツタガ):甑の星割れ(木の中心部分から放射状に入る割れ)で材がばらけてはじけ飛ぶのを防ぐため取り付けられます。昔は打ち鉄(ウチガネ)により製作されたためよくみると表面がデコボコしていますが、最近のものは機械でつくるためツルっとしたものになっています。個人的には昔のほうが苦普請の後がにじみ出て、風合いがよいと思います。
さて、こうして作られた車輪にも鉾により若干の大きさの違いがあります。また新しくなるほど大きくなる傾向です。比較的古いものでは径が約1860ミリ、最新の大きいものでは1940ミリというのが登場しています。もちろん連年の使用で磨耗しますし、また十数年に一度修理のさい、真円を取り戻すため接地面を大胆に削ります。こういったことを踏まえて、これを寸尺で割り出すと、6.2尺(約1879ミリ)・6.3尺(約1908ミリ)・6.4尺(1938ミリ)となります。大台の6、5尺(1970ミリ)・夢の6,6尺(2000ミリ)までもう一息ですね。
この車輪は鉾建てで組み込まれたとき、1年ぶりに手入れされます。古文書には「表面を拭くのはエイの油・潤滑油には種油」とあります。「エイの油=荏の油」は荏胡麻油の事で今も町屋の建具の手入れに使いますね。種油は植物由来の種子を搾り出したもので、今で言うサラダ油になります。昨今の技術的進歩で潤滑油はグリースを使うところも増えていますが、心情としては古式を守ってゆきたいと考えています。
大船鉾考証 御神体の鎧のゆくえ
「むかし船鉾は出陣の船と凱旋の船の2つあって、今残ってるのは出陣のほうだけ…」四条町界隈で生まれ育つとこう教えられます。そして必ずこう続きます、「凱旋やさかい鎧は着たはらへんねんて、よう知らんけど」
今回はこのことについて考察してみようと思います。ただ、先に申し上げますが結論は出ません(汗)
さて、まず室町期(1400年代後半頃)~江戸元禄(1600年代後半)の頃の屏風絵の、大船鉾とおぼしきものを観察すると一様に鎧を着ています。とにかくこの頃の船鉾は謎が多く、龍神が差し出す満珠・干珠を正体不明の者が盗もうとしている絵図もあるくらいです。前と後の区別があったかどうか、木組み部分が共用だった可能性・また前祭の船の巡行が終わったあと解体せず後祭に参加した可能性も無いとは言えません。1500年以前ともなれば、夜も明けきらぬ時間から順位を争って四条通り(後祭は三条通り)に繰り出したという記述があります。このとき船鉾も先陣を争ったのでしょうか?最後尾で決まっていて順位争いをしていなければ岩戸山は不利になりますね(仏光寺などを迂回すれば解決しますが)。
ちょっと話がそれました。私見として、「凱旋の船」という風流が定着しその意匠として鎧を脱いだのは天明の大火(1788)前後、もしくは文化元年(1804)の復興以降だと考えます(御霊会細記に天明罹災前の様子が書かれており詳考猶予あり)。そもそも「凱旋」(勝って帰ってくる)=「鎧を脱ぐ」というのは、戦を知らない我々には抵抗無く受け入れられますが、実際は間違いです。戦国時代最強を自負していた甲州軍団総帥、武田勝頼が長篠合戦で大敗したとき、対上杉の抑えとして領国留守預かりをしていた名将高坂昌信はほうほうのていで帰ってきた主君を信濃国境・伊那に出迎え、領内を不安にさせないよう新しい具足に着替えさせ凱旋を装いました。凱旋で鎧を脱ぐなどという風習は古今東西ありません。つまり、戦乱の世~元和偃武の頃までは大船鉾神功皇后も一般常識的に鎧を着ていたはずです。それから200余年、太平の世の戦を知らない町衆が鎧を脱がせたんだと考えます。
毎度おなじみですが、当四条町ではかつてご神体に着せていた4人分の具足を探しております。時代考証としてまず間違いなく平安末~室町期の「大鎧」で大袖・草摺(平らなもの)付き、絵図から推察して兜は無かったものと考えています。「あれ、そういえばうちの蔵に大鎧あったな~」という方、その鎧に五・三桐紋があり、「四條町ご神体御鎧」などと銘などありましたら当町にとって貴重な資料になる可能性があります。是非ともご一報下さいます様よろしくお願い申し上げます。
木部材料について
平成23年10月23日よりヨドバシカメラ内展示場で披露致しております大船鉾の基礎櫓及び舟形舞台に使われている材料についてご説明いたします。この部分は京都青年会議所の篤志により完成いたしました。
当大船鉾の基礎木部はおおまかに、四本柱(荒物)・貫12本・筋交8本・土筋交2本・虹梁2本・ハネギ4本・ハネギ支え2個・軸吊り2本・衣装柱受け枕材3本で構成されています。このうち北下・南下の貫(※後述)以外は全て三重県産の巨大なヒノキを複数用いました。特にハネギ材4本は芯持ち・それ以外は芯去りにて適材適所に組んであります。
※北下・南下の貫は基礎櫓+舟型舞台+屋根屋形+囃し方の重量を全て受ける材であるため強靭な赤樫の芯持ち材を用いています。
また舟型舞台の部材は、大引き2本・大引き受け2本・舟型欄干基礎部(片舷3本×2)・床板24枚・欄干部(片舷4つ×2)・舳(みよし)形成部・艫(とも)形成部で構成され、こちらも三重県産のヒノキの特に巨大なものを使用しております。こちらは舟型を表現する部材が多いため、カーブした部材が多数必要となります。このカーブ、すべて「削りだし」製法にて製作致しましたため、「特に大きな」材料を必要としたわけです。
さて、ヒノキについてですが特に目地の詰まったきめ細かいものを用いました。この様子は展示場内で木口(切り口)をご覧いただけますとご理解いただきやすいかと思います。木というのは1年間に1本の年輪を増やしながら成長します。この年輪と年輪の間の組織が緻密なものほど、細胞が多く密度が濃くなります。もし興味がおありでしたらホームセンターなどで日用品として売られているヒノキの切り口と比べてみてください(※後述)。密度が濃ければそれだけ材としての耐久性・耐朽性(※後述)が増し、鉾として安全な巡行をより長く行えるひとつの指標となります。目地の細かいヒノキといえば尾州檜がその白眉ですが、かといって鉾の部材にこれを多用するのは早計でしょう。尾州檜は軽軟なため鉾の激しい揺れや急ブレーキなどの衝撃に連年耐えることが難しく思います。
※ホームセンターのヒノキの名誉のために付け加えておきますが、一様にこういったヒノキが悪いということではありません。成長を促進させ多数生産し、安定した価格で我々に提供してくれることも大切な要素と言えます。
※耐朽性は水分などで材が犯され腐食することに耐える力です。目地が粗いとその分多くの水分を吸収しますので比較的腐り易くなります。また大船鉾部材では、この耐朽性をあげる為、目地方向に沿った手かんな掛けを徹底いたしました。こうすることでほとんど細胞をキズつけず、長年にわたり水をはじいてくれる事を期待しております。
当四条町としてはこれらの部材を大切に使い、我々の子から孫、曾孫、玄孫…その後のなんと呼んでよいかわからない孫たちにまで、無事渡してゆきたく思っています。またこれらの木部が一刻も早くぎしぎしと音を立て洛中を巡行する日を楽しみにしております。どうか皆様のご声援をたまわりますようよろしくお願い致します。
大船鉾考証 最後尾の意味
「長刀が先頭、べったが船鉾、あとは籤で決めるんや」 山鉾町界隈に住んでいれば幼いころに1度は聞くであろう文言ですね。そう聞いた子供は程なく山鉾巡行を目のあたりにして、山鉾の迫力に圧倒されながら巡行順を確認し、いつの間にか「船鉾=最終」を違和感なく受けいれてゆきます。
「べったは船…」「最終を飾る船…」あまりにも常套句化していますが、ちょっと待って下さい。なぜ最終が「船」でなければならないのか?疑問を呈したことはありませんでしょうか。前祭も後祭も最終が「船」でなければならない理由。7日も14日もその船に神功皇后をお祀りする理由。なんだか謎ですね。四条町ではこの問いに対し、大胆な仮説を打ち立てています。
山鉾の起源は御霊会です。夏の盛りにおそらく食べ物由来の疫病が蔓延し、バタバタと人が倒れてゆく状態を悪霊の仕業と見切り、その悪霊を強い清浄で打ち払うべく祗園御霊会が始まりました。手順はおおよそ次の通りです。①悪霊を神剣でなぎ払いある程度きれいにしておく(前祭=長刀鉾※後述)、②祗園社から3神をお迎えし(神幸祭)、本格的に都を浄化していただく(お旅所の7日間)、③浄化完了後、3神がお帰りする道を露払いする(後祭)、④3神が祗園社にお帰りなさる(還幸祭)、以上です。
①の作業において、厳密に意味をなすのは昔も今も長刀鉾のみです。三条小鍛冶の大長刀が悪霊をなぎ祓う、屋根につく外向きの鯱で邪を祓う、蛙股の彫刻「厭舞」も似た理由でしょう。それ以外の山鉾は、故事や神話に基づき鉾頭や意匠が成されていることを考えると、正当に悪霊を祓えるのはやはり長刀鉾だけです。
さてここから、前祭のしんがりを飾る船鉾ですが、「船」は水を進むためのものですね。かつて巡行コースは「四条通り東行」→「寺町南行」です。これは物理的な話で、通り唄にあるとおり「寺・御幸・麩屋・富」で鴨川以西の最初の通りは寺町通りで、現在の河原町通りなどなく、そこはただ一面の河原でありました(この鴨川西岸を京極=京のきわみといいました)。大きな山鉾は地道といえども整備された道路しか進めず、また鴨川が神域との境界であったことからそれ以上進むことをはばかりました。
ところが最終の「船」だけはこのことに当てはまりません。当然浮き世のものなので寺町を南行しましたが、レーゾンデートルとして川を渡るものではないか、と考えます。「鴨川を渡る=神域へ入る」、神域へ入った船鉾は何をするのでしょう?神様を直々に道案内するのでしょうか?否。このとき船は3神の神器(神様たちの大切な道具)を運ぶ役目だったと考えます。その神器は大切に甕のようなものに入れられていました。この凄く大切な甕を大事に大事に市中にお運びする時、人は懐にその甕を抱いて決して失くさぬようお守りします。
もうお気づきでしょうか?神功皇后が妊娠して海を渡り、勝って(お腹を膨らませて)返ってきて無事応神天皇を出産される様子はまさに大事な神器の甕を抱えて(懐を膨らませて)市中に運ぶ様子とそっくりではありませんか?
こうなれば当大船鉾の役割は決まってきます。先の船鉾が持って来た神器を、今度は後祭でただ1基鴨川を渡り、無事祗園社にお戻しするのが役目でしょう。
では次に、いつから御神体が神功皇后に変わったのか?について考えてみたいと思います。…が、これは結論からいって最初からでしょう。正確には嘉吉元年(1441)、船の形に車輪をつけた形態になったときには皇后様がご祭神であったと思います。しかしこれ以前のことが重要だと考えます。「神泉苑」、これをぬきに祇園祭は語れないでしょう。
貞観11年(869)、「御池通り」の由来となる大きな大きな泉(神泉苑)に66本の鉾(剣鉾)を打ちたて、「御霊会」なるものがひっそりと行われたようです。この神泉苑での儀式は今のところ詳細がわかっていません。一体なにをやっていたのでしょうか?①剣鉾は水辺に立てたのか?それともほとりの陸部に立てたのか?②泉で儀式をやる意味は?③このとき泉に「船」は浮いていたか…。
先ほど鴨川の水は「結界」だと申しました。「水引」の語源のとおり、水を四方にめぐらせて結界を結ぶ考え方です。そしてその流れる「水」はとても強い「清浄」の象徴だったことでしょう。であれば神泉苑は悪霊祓いのステージとしてうってつけです。さらには、悪霊退散のために泉の水の清浄パワーをフル活用したことが考えられます。使い方は大きくわけて2パターンあるはずです。①悪霊にむけてこの水を浴びせる(祓い)②悪霊を1つにたばね詰め込んで水に沈めてしまう(封印)
私的には②だと考えます。①の祓いは剣鉾の役目とするのが妥当でしょう。そして②の場合、必然的に船が必要となります。水辺から腕の届く範囲の浅瀬に悪霊を沈めてもなんだか不安ですからね。やはり水深の深いところへドボンとやりたくなるのが人情でしょう。
長くなりましたが、とにかく起源とされる「秘密儀式」のときから、鉾と船がセットだったのではないか?という四条町の考察です。またの機会にもう少し掘り下げた内容を載せたく思います。
お火焚き祭
四条町では恒例のお火焚き祭がありました。
祇園牛頭天王の御神号の軸、神功皇后御神面をお祀りし厳粛に神事を執り行いました。
四条町のお火焚き祭は町内神事の一つで、五穀豊穣を感謝し、火を取り扱う機会が多くなるこの時期に、火の安全をお願いする儀式と伝わっております。
神事行事として神事(現保存会)によって執り行われていた時期もあったようですが、現在は四条町内会の行事となっております。
祇園祭以来のお出ましとなる御神面に大船鉾櫓木部部分の完成を報告いたしました。
大船鉾考証 龍頭
大船鉾の舳先は、江戸初期には御幣(現在見られる和紙+漆+金箔のものではなく「采配」に似たもの)を簡素につけていました。その後江戸中後期に龍頭が登場したと思われます。個人的には、天明の大火(1788)罹災後の復興で作られたのではないかと…。
文化元年(1804)、天明の大火から復興した大船鉾は化政期の財力と美術技術的沸点に支えられ、みちがえて立派なものになりました。このとき龍頭も立派なものが作られました。下絵を松村月渓(呉春)に依頼し完成したそれは、いくつかの掛け軸、屏風絵にみることができます。(古文書には「月渓」下絵とあり呉春初期の作を連想させますが、文化8年永眠の人なので比較的晩年の円熟期の作かと推察されます)
さて、この絵画資料を見ておおよその龍頭の形がみえてきました。
まず、頭から尾まで存在したであろう事。木彫金箔彩色であろう事。次に形ですが、頭は少し左を向いて目玉を正面やや下に睨みつけ、首は大きく右にふれて鉾の右舷からはみ出す勢いがあり、胴は舳先方向正面やや左へ大きく突き出し(胸を張った状態)、腕(手)は左手が左舷と舳先の角部をつかみ(左舷から完全に薬指と小指が見える状態)、右手は舳先の欄縁やや右端を掴んでいる(右舷には全くかからない)形状です。尾の詳細はわかりませんが、上記の延長として推察するに舞台内左舷から中央部へ巻き返してゆくのが自然かと思います。いかにも呉春らしい自由闊達で奔放な龍だった感じがしますね。
当四条町ではこの龍頭の行方を探しています。どんどん焼け(1864)で焼失したとの説もありますが、当時の条件を鑑みて焼失よりは散逸の可能性のほうが高いと考えます。それは①当時の火災は延焼範囲が大きくなるものの火のまわりがそう早くないので宝物の避難持ち出しの猶予があること、②現存品の中に龍頭よりはるかに大きく重いであろうものが多数あること(大金幣や大舵・水引類)、③避難の優先順位が高いであろうこと(ご神面→衣装懸装品→龍頭→金幣の順ではなかろうか)、などがあげられます。
保存形状としては、6点ほどに分割収納されている可能性があるため(頭・首・胴・両腕・尾)、完品で出てくる可能性は少ないかとも思いますが、もしお家の蔵や押入れに「十四日船鉾云々」とか「北四条町云々」とかかれた古い箱などありましたら当町にとって貴重な資料になり得ますので是非ご一報下さいます様、平にお願い申し上げます。19世紀フランスでのジャポニスムなどの折、海外コレクターに所有され(何に使うかわからないまま)元気に暮らしている可能性もありますが、「まず隗よりはじめよ」の精神で町内として鋭意捜索してゆきたく思います。
岡本豊彦画 公益財団法人四条町大船鉾保存会蔵
岡本豊彦は呉春の弟子。つまり師匠が下絵を描いた龍を弟子の豊彦が実物を見て画にしたとも考えられます。
基礎櫓筋交について
筋交というのは鉾の基礎櫓の四面に×型に組み込んだ構造をさします。このバッテン型にうまく縄がらみを施すと、いわゆる「雄蝶」と「雌蝶」が出来上がるわけです。(現在ヨドバシカメラ内展示室でこの縄がらみはご覧いただけます。但し大船鉾は構造上4面すべて雌蝶です)
この美しい縄がらみの上に各町自慢の色鮮やかな懸装品を掛け、鉾は完成します。ただ、祇園祭がメジャーになって久しい昨今、様々な冊子やパンフレットでこのことは説明されていますよね。
当四条町ではこの縄がらみのさらに下、筋交部材の組み方にも意匠を凝らしました。筋交のバッテン型は2本のヒノキの板を単純にクロスすることで形成しています。ということは、「奥側」と「手前側」が存在することになりますよね。これを4面すべて右が手前(鉾内側)になるように致しました。もうおわかりだと思いますが、着物と同じように「右前」を意識しているわけです。(鉾本体を人に見立てての状態です)
今の展示の状態でこの意匠を確認していただくことはできません(縄がらみがあるため)が近い将来巡行参加時の鉾建ての際には是非四条町にお越しいただき、ご覧頂きたく思います。この筋交をご覧いただける予定日は201〇年7月11日午前中です。是非とも宜しくお願い致します。
部材位置示し墨書
京都駅前ヨドバシビル内展示のため、鉾建てをした日から遡ること2週間前、当保存会は各部材の位置を示す墨書を実施いたしました。
さてこの墨書、めったやたらに書けば済むものではありません。部材によっては300年の後世にも伝わるものですので、現在の町人の美的センスが問われるわけです。無論、実際巡行参加時に手伝い方(作事方の1セクションで基礎部部材を組み立て縄がらみを施す集団)にわかりよいようにしておく必要があります。
さらには、文字そのものも大変重要です。当然「よい字」を書きたいわけですが、いにしえの名書家(王羲之や三筆・三蹟)のそれは余白と濃淡を楽しむ絵画芸術に近く、部材にはめこむには系統が違います。かといってカチカチの明朝体では遊びがなくただ書いただけに終わってしまいます。
他の山鉾の部材位置書きを観察してみますと中には非常に面白いものがあります。変体仮名を使ったり、場所により字体を変えてあったり…と。これは例えば荒物櫓北面の貫が上から3本あると「北上・北中・北下」となるわけですが、上から順に草書・行書・楷書の順で書いたりするわけです。こうすると「北下」は楷書で堅く地に足がついた感じが出ますし、「北上」は草書で雲にたゆたうような感じの字を人々が夏の青空に向かって見上げることになるわけですね。昔のセンスと遊び心を感じます。
さて、大船鉾ですが筆入れを依頼しましたのは四条町ゆかりの書家「窓月庵 坐屼」先生です。そして、鉾の中心(櫓の真ん中)に立ったとき全ての位置書きが見えるようにし、統一感を持たせました。我々もなかなか機会がありませんが、部材を組み立て縄を巻く直前に櫓の中に立つと辺り一面に見事な墨書が現れ壮観で思わず息をのみます。
変体仮名や篆書を織り交ぜ、畏怖の対象たる鉾として実に見事な墨書きができたと自負しております。是非一度、ヨドバシビル内展示室にてご鑑賞下さいませ。
京都市無形文化遺産展示室オープン
10月23日(日)、翌24日にオープンを控え、京都駅前ヨドバシビル内京都市無形文化遺産展示室で、関係者を招いての式典及び内覧会が行われました。私共四条町大船鉾保存会にとっても櫓木部部分新調披露の日となりました。関係各位の後押し、ご支援、ご協力、ご努力のお蔭様をもちまして焼失より147年ぶりに新調披露を行うことが出来ました。
テープカット左より、松居当保存会理事長、(株)ヨドバシカメラ藤澤社長、平竹京都市文化市民局長、(財)祇園祭山鉾連合会吉田理事長、京都青年会議所立木前理事長
囃子方にとっては、囃子の復活から15年目にして初めての鉾の上での囃子となりました
片側は縄がらみの状態で展示いたしております。また展示に際し、足回りは(財)菊水鉾保存会様より退役の部材をお借り致しております。鉾らしく見えるのは足回りが有ってのことと一同心より感謝致しております。ありがとうございます。
今回の披露を終えて個人的な感想というか思いは、既に「屋形が欲しい」という次のステージに向かい始めております。現在、屋形部分の基本設計を(財)祇園祭山鉾連合会主催の大船鉾復原検討委員会で有識者の皆様によって検討いただいております。設計が確定次第、手元資金と相談しながら、2014年の復興を目指し前進してまいります。
保存会が所有していた現金は僅かな運営費を残し、今回の櫓木部部分という財産に変わりました。その後多くの篤志家の皆様より浄財をご寄付いただいておりますが、まだまだ、事業成就の目標額には程遠いのが現状です。
今後も一人でも多くの方に私共の復興事業にかける思いと何よりこの復興事業の歴史的重要性を訴え、事業成就の為のご支援をお願いしてまいる所存です。
私共の思いは「四条町大船鉾祭事を例年通り、次世代に受け継ぐ、受け継ぐ体制を作る」ことにあります。鉾の復興こそが、鉾こそがそれを可能にすると信じます。
どうか皆様よろしくお願い致します。
今日は真面目な話ばかりになりましたが、楽しいブログにしてまいりたいと思います。このブログは保存会の私木村と中野理事とが中心に更新してまいります。また、今回いきなり木部披露という直近の情報をお伝えしましたが、今後、大船鉾について、復興事業について、囃子について過去現在未来が前後するとは思いますが、いろいろとお伝えしてまいりたいと思います。お楽しみに!(業務執行理事 木村宣介)