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お火焚き祭
大船鉾考証 龍頭
大船鉾の舳先は、江戸初期には御幣(現在見られる和紙+漆+金箔のものではなく「采配」に似たもの)を簡素につけていました。その後江戸中後期に龍頭が登場したと思われます。個人的には、天明の大火(1788)罹災後の復興で作られたのではないかと…。
文化元年(1804)、天明の大火から復興した大船鉾は化政期の財力と美術技術的沸点に支えられ、みちがえて立派なものになりました。このとき龍頭も立派なものが作られました。下絵を松村月渓(呉春)に依頼し完成したそれは、いくつかの掛け軸、屏風絵にみることができます。(古文書には「月渓」下絵とあり呉春初期の作を連想させますが、文化8年永眠の人なので比較的晩年の円熟期の作かと推察されます)
さて、この絵画資料を見ておおよその龍頭の形がみえてきました。
まず、頭から尾まで存在したであろう事。木彫金箔彩色であろう事。次に形ですが、頭は少し左を向いて目玉を正面やや下に睨みつけ、首は大きく右にふれて鉾の右舷からはみ出す勢いがあり、胴は舳先方向正面やや左へ大きく突き出し(胸を張った状態)、腕(手)は左手が左舷と舳先の角部をつかみ(左舷から完全に薬指と小指が見える状態)、右手は舳先の欄縁やや右端を掴んでいる(右舷には全くかからない)形状です。尾の詳細はわかりませんが、上記の延長として推察するに舞台内左舷から中央部へ巻き返してゆくのが自然かと思います。いかにも呉春らしい自由闊達で奔放な龍だった感じがしますね。
当四条町ではこの龍頭の行方を探しています。どんどん焼け(1864)で焼失したとの説もありますが、当時の条件を鑑みて焼失よりは散逸の可能性のほうが高いと考えます。それは①当時の火災は延焼範囲が大きくなるものの火のまわりがそう早くないので宝物の避難持ち出しの猶予があること、②現存品の中に龍頭よりはるかに大きく重いであろうものが多数あること(大金幣や大舵・水引類)、③避難の優先順位が高いであろうこと(ご神面→衣装懸装品→龍頭→金幣の順ではなかろうか)、などがあげられます。
保存形状としては、6点ほどに分割収納されている可能性があるため(頭・首・胴・両腕・尾)、完品で出てくる可能性は少ないかとも思いますが、もしお家の蔵や押入れに「十四日船鉾云々」とか「北四条町云々」とかかれた古い箱などありましたら当町にとって貴重な資料になり得ますので是非ご一報下さいます様、平にお願い申し上げます。19世紀フランスでのジャポニスムなどの折、海外コレクターに所有され(何に使うかわからないまま)元気に暮らしている可能性もありますが、「まず隗よりはじめよ」の精神で町内として鋭意捜索してゆきたく思います。
岡本豊彦画 公益財団法人四条町大船鉾保存会蔵
岡本豊彦は呉春の弟子。つまり師匠が下絵を描いた龍を弟子の豊彦が実物を見て画にしたとも考えられます。