- 2011年12月28日
大船鉾考証 廿四日巡行の様子 - 2011年12月20日
随車荷車製作 - 2011年12月18日
衣裳について(総論) - 2011年12月10日
四条町餅切伝説 - 2011年12月06日
大船鉾のお囃子2
2011年12月アーカイブ
大船鉾考証 廿四日巡行の様子
報道などで周知の通り、巡行日程を前祭りと後祭りにわける(旧習に戻す)検討がなされている昨今です。それを踏まえ、24日後祭り巡行の模様を考察してみようと思います。(あくまで検討段階での話ですので過分にファンタジックな内容です)
ケース①御池烏丸を出発地点とし、御池通りに整列→河原町南行→四条西進→四条烏丸解散。この場合大船鉾の集合地点はおおよそ新町御池の辻となり、AM9:00の先頭出発時にはここでの辻廻しの最中かと思われます。したがって町内出発は8:30です。他方、先頭(橋弁慶山先頭の議論もあるようですが)の北観音山は9:00に御池烏丸に到達している必要があるため、8:15分には町内出発となります。ただこの御池集合の場合、イデオロギー的な問題が発生します。例えば鈴鹿山は南向きに建っていますが、出発に向けUターンすることになります。これは観念的に是か非かわかりません。御池高倉で籤改め、御旅所前で御祓いがありますが、前祭りほどの行事はなくまた基数も少ないためすみやかな巡行になるかと思います。北観音山が四条新町に到着するのは10:45頃、大船鉾が帰町しても12:00前かと思われます。
ケース②三条烏丸を出発地点とし、三条通り東進→御幸町北仰→御池東進→河原町南行→四条西進。この場合は辻廻しが6回に増え、しかも右旋左旋と大忙しです。最大の懸案は新町三条と三条御幸町の辻廻しで、6m道路交差点・約36㎡の場所で2回辻廻しを行います。大船鉾の船体が7、5mもあるためなかなかの見せ場になります。現在の辻廻しのように1度で2~3メートルスライドするのではなく、10センチずつスライドさせる力のかけ方で鉾が横を向くまで繰り返します。なにしろ狭い場所ですので状況に応じて「前へ送れ」「後へずらせ」と上へ下への大忙し、炎天下や雨中で車方・手伝い・引き手は大変ですが、洛中から疫病を祓うためにはなんのそのです。
ケース③三条烏丸を出発→すぐ辻廻しで烏丸北仰→烏丸二条東進→二条寺町南行→御池寺町東進→御池河原町南行→四条西進。何としても寺町巡行にこだわる場合のルートです。二条はギリギリ氏子内かと思いますので何とか意味は通せるかと思いました。但しこの場合大船鉾は8回の辻廻しを行うことになりまして、現状の2倍の量…こうなれば曳き手の交代要員が必要かもしれませんし、給水ポイントも増やさなければなりません。また、割り竹も前半用と後半用がいるかもしれません。言語に絶しますね。
ケース④全てのアーケードを撤去もしくは可動式にし、かつての巡行路をキレイに再現。吉田茂や田中角栄好みの手法ですね。まあなかなか…。
随車荷車製作
四条町大船鉾では近年中の山鉾巡行に唐櫃奉巡にて参加することを検討しています。いわゆる唐櫃巡行のことで、諸処の事情により山鉾本体が出せない時にその「御霊(みたま)」を唐櫃に納め巡行加列いたします。
この第1準備として、巡行に随する荷車が必要と判断し製作とあいなりました。この荷車は巡行にお供する人々に必要な物品を運ぶ小型の大八車のことです。この大八車に(巡行中の鉾へ乗り降りするための)ハシゴや返礼用ちまき、お供衆の相引(腰掛です)、予備衣装、雨具、救急箱、飲み水などを積み随行させます。ご神事の山鉾巡行とはいえ、これを行うは全て人たるものの担う事、而して炎天下での命ともいえる水分を運ぶ大切な役割をもっています。
さてこの荷車ですが、各パーツごとに入手し、四条町で組み立てる方式にて手配しました。車輪はおそらく昭和初期に作られた骨董の大八車車輪を購入しました。車軸を白樫、土台部分を一位樫で設計製作し、その全てが12月19日に揃いました為、町中に検品いただきました。町中指導のもと、賛助会員に車輪の手入れ(荏油拭き)をしていただき、町内有志のご自宅土蔵にて半年間休んでもらいます。晴れて巡行参加の暁には広く皆様にもご覧頂きたく思います。
衣裳について(総論)
衣裳というとご神体衣装とか幕類懸装品をイメージされがちですが、大船鉾では飾り物全てを総称してこのように呼んでいます。(対義語として基礎木部類及び什器を荒物と言います)
さて、大船鉾の衣裳ですが端的にいいますと「耽美的」です。まず象形文様として使われているものは「鳳凰」「龍(雲龍・飛龍・飛魚)」「雲」「波(青海・波濤・飛沫・青海岩)」「馬」の5種10パターンです。屋根破風彫刻と艫屋形幕に鳳凰、前後幕と天・下水引、大楫に龍、2番と天水引に雲、そして波が下水引・前後幕・裾幕・艫彫刻(馬を伴う※後述)にあります。こう見ますと舳先に龍頭というのはダメ押しですね。このように、瑞祥文様のなかでも王道的なものを反復使用し、あくまで「船を飾る」ということにこだわった様子は、舶来の人物画や絨毯などを用いたデカダン派の山鉾と一線を画します。
※艫屋形の額型はめ込み式の彫刻で町内呼称「海馬の彫刻(極彩色)」です。岩群青の大波上に波濤飛沫をおそらく白土で塗り、その波上に白馬(顔料はおそらく鉛白)を配置、たてがみと尾は黒~濃紺色でヒズメは金箔かと思われます。この白馬は側面に各1、背面(正面)に2匹います。四条町ではこれら3面の彫刻を探しています。アレ、これ欄間にしては小さいなぁ…と思われる額彫刻をお持ちの方、裏面に「東」とか「西」とか、文化〇〇歳~という銘などないか確認の程お願い致します。
紋章文様としては3種類で「木瓜」「巴」「五七桐」です。これは他の山鉾町と比べても変わりありません。屋根切妻部拝み・大幡・大金幣串金具・跳勾欄下幕・艫幔幕に木瓜と巴紋が多用され、艫屋形幕隅金具に桐紋が使われていました。五・七桐紋は神功皇后の象徴的な紋であるため使用されましたが、実はあまり関係がありません。わが国では源氏(清和天皇系の武家の棟梁≒征夷大将軍)の象徴紋として中世豊臣時代に認識され→徳川政権において貨幣などに多用されました。秀吉が霞のような「権威」を手にしようともがいた文禄~慶長初期の桐紋イメージが、思想的に皇族将軍→鎌倉幕府→清和源氏→八幡さまと時代をさかのぼり皇后さまの紋として定着したのではないかと思います。以後、主に幕政中枢をイメージした紋であることから現在もわが国の政府(内閣)紋章となっています。
幕類衣裳は原色地色が赤~紅/退紅色のものがほとんどで、屋根上部のうるみ漆、龍神の赤熊、勾欄の塗りなど緋色主体で構成されています。こんなに赤い鉾はおそらく長刀鉾以来でありまして、先頭と最終の意匠対比が似ていることは興味深く思っています。
上記のように赤い鉾であるとき、会所飾りの堤燈は何色だっただろうか…とか、高梁の傘は何色だっただろう…鉾の桟橋にかかる幔幕は…などと想像してまわるのは楽しいシュミです。緋色に対して映えるのは紺とか浅葱というのが昔の定番でしょう。西洋美術では緋にグレーですね。しかしココまで赤くて且つその路線が耽美的であるのなら、もはや堤燈その他のしつらえも「緋主体」で行ったらどうか?とも思います。
皆さんいいアイデアをお待ちしております。
四条町餅切伝説
四条町では、以前居祭が中断されていた際も、祗園祭期間中はご神面とご神号を祀る神事は連綿と続けられていました。この神事では、他のご町内と同様に榊やお供え等の設えも定められており、例年どおり執り行われていました。そのお供えの中に鏡餅があります。このお鏡さんは、お祭りが終わると町内保存会員の軒数に切り分けられ、お下がりとして授けられます。ところが、数日間経った餅は表面が硬くなってしまっていて、当時高齢者ばかりであった保存会役員にとって、この切り分ける作業がとてもたいへんで、いわば四条町の祗園祭に於ける最大の難事業でした。
それが、お囃子が復活し、公募により囃子方の人数が増えるにつれ、その作業は若くて力のある囃子方が請け負うようになり、あれほどまでにたいへんであった作業があっという間に終わるようになりました。そしてこのことは町内の長老たちに、とっても大きなインパクトを与えることとなりました。これがひとつのきっかけとして、大船鉾のお囃子を復活させようとしたとき、どちらかというとそのことに肯定的でなかった当時の長老たちも、囃子方がお囃子だけでなく、神事の準備やあとかたづけにも積極的に関わっていく様子を目の当たりにすることで、お囃子や囃子方に対する姿勢が変化していったように思います。この15年の間に、まさに空気が変わった。そんなふうに感じています。
大船鉾が150年ぶりにその雄姿を都大路に現すことができるその陰には、この餅切り物語があったればこそと、未来永劫四条町に語り継がれんことを切に願うものであります。
大船鉾のお囃子2
前回大船鉾の囃子に関して書かせていただきましたが、お囃子に関してもうひとつ大きな課題があります。それは後祭の復興ということです。大船鉾は後祭の殿(しんがり)を務める鉾ですから、後祭が復興となると現在行われている各鉾の巡行での演奏パターンとは、まったく異なるものとなります。また復興された場合の巡行路が昔日と同じく三条通を行くものなのか?、あるいは現在の巡行路である御池通を行くことになるのか?。また寺町南行が可能になるのか?、やはり河原町通なのか?。それによっても内容が大きく違ってきます。
町内出発は「打ち込み」から「渡り」なのは当然だと思いますが、そのまま延々と御池通まで「渡り」で行き(現在のコースの逆回りとするなら)、そのまま「渡り」で辻回しを行うこととなります。鬮渡しはどのあたりなのでしょうか?。かつては三條高倉で行われていたとありますから、やはり御池の高倉になるのでしょうか?。その前はまだ「渡り」なのでしょうね。その後、御池通巡行中に戻り囃子になって御池河原町で辻回しをし、河原町を南行して河原町四條。このときに奉納の「神楽」を演奏し「唐子」で辻回しをするのでしょうか?。そうすると四条通で、もういちど戻り囃子に戻さなければなりません。そう考えると巡行の半分ぐらいが奉納のお囃子ということになりますね。パターンとしては現在の巡行でわたしたちが考えている 「渡り」→「渡り上げ」→「神楽」→「神楽上げ」→「唐子」→「凱船(唐子上げ)」→「戻り囃子」 というものから、「渡り」→「渡り上げ」→「戻り囃子」→「神楽の入り」→「神楽」→「神楽上げ」→「唐子」→「凱船」→「戻り囃子」となるのでしょうか。大船鉾囃子方の中にも後祭巡行を見たという者はいますが、そのお囃子まではわかる者はいないので、どうしていいものかよく分かりません。
以前から後祭のお囃子には関心があり、北と南の観音山でベテランの囃子方にお聞きしたことがあるのですが、微妙にニュアンスが違っていました。また祗園囃子を研究しておられる田井竜一先生にも、ぜひ後祭のお囃子について調査をしてください、とお願いしていたのですが、50年近く前のことで、当時囃子方の中心におられた方々はすでに現役ではないでしょうから、なかなか難しいのかもしれません。後祭巡行が現実のものとなってきたあかつきには、両観音山の囃子方の皆様にもお教えいただき、大船鉾の後祭巡行パターンを作っていかなければなりません。
三条通を巡行する大船鉾(もちろんコラージュです・・・・念のため)
大船鉾のお囃子
わたしたちが大船鉾を復興させるに至る過程には、いまから15年前に祗園囃子を復興させたことが大きな原動力となったことは、みなさんご承知のことと思います。岩戸山保存会のご厚意により、その囃子方さま方のご指導を受けて始められた大船鉾の囃子は、これまでは池坊学園の舞台や友禅ビルの会場で囃す、あくまでも演奏会用のお囃子でした。ところが、本来の祗園囃子は鉾や山に乗って移動しながら囃すものですから、どの場所でどの曲を囃すのかということがたいへん重要であります。したがって近い将来巡行参加となると、これからは演奏会用のお囃子から巡行のお囃子にしていかなければなりません。
祗園囃子は大きく分けると、四條河原町まで囃される「渡り」と総称される奉納のお囃子と、河原町通りから帰町するまでの「戻り」のお囃子の二つがあります。ご指導下さった岩戸山囃子方の師匠から戴いた曲は、奉納の曲2曲と戻りの曲(つなぎの曲※1を含む)11曲、そして日和神楽の、計14曲でした。その後、大船鉾囃子方自ら作曲したもの※2が奉納の曲1曲と戻りの曲6曲(つなぎの曲を含む)あります。はたしてこれらの曲で巡行ができるのか?、足りないものはないのか?。
わたしたちは奉納の曲に関しては所謂「神楽※3」のお囃子と、「渡り」からそこにつなぐ曲、「神楽」から次につなぐ曲が必要ではないかと考えています。また戻りの曲に関しては現在の曲で巡行は可能だと思いますが、「流し」の旋律によるバリエーションがもう少しあればよいかもしれません。ただ戻りの囃子に関して言えば、どこの辻回しでどの曲を用いるか?、河原町通ではどういった曲が中心になるのか?、御池通では?、新町通では?など、先に申しましたように場所と曲の関係を整理していく必要があるのではないかと考えています。わたしたち大船鉾囃子方は、長年にわたり祗園囃子をしてきたという経験者はおらず、祗園囃子に関してはまったくの素人ばかりです。したがってこれらのことをやっていくためには、祗園囃子そのものの勉強がとても大切で、他の鉾の囃子方さまからお教えいただかなければならないこともたくさんあると思います。お囃子は曲ができても、それを演奏できるようにしていくための稽古の時間が必要ですから、わたしたちに残された時間はそう多くはありません。がんばらなければなりませんね。
※1 つなぎの曲には(1)前の曲を終わるための曲(上ゲ) (2)後の曲に入るための前奏曲 (3)独立して複数の曲の変換に使える曲などがあります。大船鉾では主に(3)のパターンですが、一部(1)や(2)のパターンの曲があります。
※2 曲をつくるといっても、なんでもありというわけにはいきません。とくに新参者の大船鉾にとっては冒険は禁物で、あくまでも伝統的な祗園囃子の範疇を出ない中での新曲となります。祗園囃子には、特に戻りのお囃子で「つくし」「流し」「獅子」などの旋律パターンがあり、その旋律パターンを使って太鼓・鉦の打ち方を変えていくつかの曲がある、という一つの特徴があります(田井竜一先生・増田 雄 先生の研究による)。大船鉾でもそれは守っていかなければなりません。そのために他の鉾のお囃子をたくさん聴かせていただいて研究させていただきました。これはけっして
他の鉾のお囃子を真似するためではなく、祗園囃子として変えてはいけないところは何なのか?変えてもいいところはどこなのか?を知るために必要だったのです。※3 「神楽」は御旅所の前や四条河原町で演奏されていると思います。以前は、前祭は寺町南行でしたから、すべて御旅所のあたりで演奏されていたのでしょう。前祭では、まだ御旅所には神様が来ておられないので、八坂神社に最も近い場所ということで行われていた、ということかもしれません。また戻りのお囃子の中にも「神楽」と称する曲があるように思われます。聴いたかぎりでは、「つくし」の旋律により、鉦の打ち方も各鉾共通しているように思われます(つくしは9行のお囃子ですが、鉦は4行のため、鉦二回りで1行余ります。そこで最後の部分の鉦を1行追加している鉾と、そのままズレていかせている鉾とがあるように思います)。この戻りの「神楽」はどういった場面で囃されているのか、というあたりはいまのところまだ勉強不足で、大船鉾でもこのお囃子が必要なのかどうか考慮中というところです。