- 2012年02月21日
大船鉾考証 艫(とも)について - 2012年02月13日
大船鉾細見 後掛 - 2012年02月09日
大船鉾細見 前掛 - 2012年02月05日
大船鉾考証 礎石 - 2012年02月01日
御神体衣装製作見学会
2012年2月アーカイブ
大船鉾考証 艫(とも)について
現存の船鉾の後部(船でいう艫)には上下に欄干を持つ艫屋形があります。焼失前の大船鉾にも同じような屋形がありました。古い絵図には鹿島明神を囲む衝立のようなものが描かれていますが、幕末の改造の際には豪華な屋形となったと思われます。
船鉾と大船鉾の艫屋形の最大の違いは、大船鉾が火灯窓の意匠を取り入れていることです。焼失前の絵図にはどれもこの形が描かれていますし、「増補祇園御霊会細記」にも「艫屋形上下に高欄あり中は火燈口」とあるのでほぼ間違いないと思われます。上の図を見ていただくとよく分かると思いますが、火灯窓とは鐘のような形の窓のことです。多くの方は、「お寺の窓だ」と思われることでしょう。その通り、このデザインは禅宗とともに中国から伝わったものです。禅宗のお寺に使われたものが気に入られ、後には多くの建築で使われるようになりました。祇園祭の山鉾では、大船鉾が火灯窓を用いている唯一の例です。他の祭でも長浜曳山祭や長浜の影響を受けている曳山に見られます。これは、長浜型の曳山が「亭(ちん)」という屋形を有するためです。他の曳山は吹き抜け構造のものが多いので、窓を設ける箇所がありません。例外的に、伊賀上野天神祭の天満宮所蔵の模型では一層前部に火灯窓があります。なお、大津祭では源氏山の紫式部の背後にこの窓がありますが、これは石山寺の源氏の間を表すものであり、人形に付属するものだといえるでしょう。
大船鉾がこの意匠を取り入れた理由は不明ですが、後ろから見たときの、船鉾との差異を強調したのは間違いないでしょう。二つの船鉾は同じ神功皇后の乗られる船ではあるが、前祭と同じ船鉾が出されているのではない、ということを、わかる人にはわかってほしいという思いがあったのではないでしょうか。ではなぜ火灯窓の意匠なのか、ということは後の機会に譲ることにして、このような細部の意匠からもかつての四条町の心意気を感じ取っていただければ幸いです。なお、現在、艫屋形の設計も進められていますが、形のいい火灯窓をデザインしてお披露目する予定です。皆さまの応援をよろしくお願いします。
大船鉾細見 後掛
後掛 ~紅地雲龍青海宝散文綴織~
この後掛は大船鉾の船型後部を飾るものです。個人的にこの品は大船鉾幕類懸装の中で、もっとも面白く見どころの多い稀代の一作と思っています。その面白さを皆さんと一緒に見ていけたらと思います。
まず作りは絹・金糸を用いた爪綴織で一般的に見て「紅地雲龍波濤」というデザインに入ります。しかし、メインの下り龍をこのような構図で完品とした織物をかつて見たことがありません。少し離れて見ると画面左に龍が寄っていて、右は余白のような印象を受けます。龍の顔は前掛けと同じで同一龍を狙って描いたものですが、ウロコの技法が「平櫛青海」となっており前掛けと決定的に違います。最下の青海部分では、中央の岩礁を青海波そのものが越えてしまっています(※後述)。さらに通例では中央の岩礁に向かってくる波のところを、中央を起点として外へ外へ逃げる波になっており、その波に逆らうべく龍が中央を向いています。このような辺りに反骨精神の塊のような印象をうけ、図案者が何か一言込めたかったのではないか?と感じます。
※町内の織物商さん(これらの幕のレプリカを製作なされている方です)に教えて戴き、これは俯瞰表現の1種でたまにある表現だということが判明しました。
次に、メイン龍の回りを円形に宝散らしで装飾してあります。龍を中心として1時の方角から時計回りに「玉板」「珠」「霊芝」「方勝」「丁子」「盤長」「傘」「白蓋」で龍のふところに「法螺」があります。珠は宝尽くし紋ではありません為、八宝となります。この八宝+珠で九つとなり、作者が福寿を長久希求したかと思われます。ここで気になりますのは「花輪違」ではなく「方勝」であること、「霊芝」があることです。特に霊芝は八宝といえども日本では殆ど見られないので、ひょっとしてこの幕自体が中国製か?と疑ってしまいます。
さて、この幕の面白みの最たる箇所を見てみましょう。一体この幕には生き物がいくついるでしょうか?龍が3つみえますが、実は他にもう1つ別の生き物が描かれています。画面上段左端の蝙蝠がそれです。この幕に蝙蝠がいるのは、かなり唐突な印象を受けますが、中国語で蝙蝠は「福」と同じ発音らしく、それが為、めでたい文様とされています。問題は「これを誰が入れたのか」です。この幕は調査で日本製であることが確認されています。19世紀初頭には日本でも蝙蝠文が流行ったという記録がありますが、この幕を作るに際して唐突に蝙蝠を-しかも雲間に隠して紛れ込ませるという遊びを思いついたのは誰か?四条町に渡来人がいた可能性もありますし、付近にあった平戸藩邸(外国事情に明るい)の人と親交があって「文様にこんなん入れといたら面白い!」と酒の席で盛り上がってのことかもしれませんね。ただしこの蝙蝠は他の宝紋とは区別されています。宝紋はすべて羽衣でくるまれているのに対し蝙蝠は丸裸です。まあ、蝙蝠を羽衣でくるむと「捕獲」したみたいに見えますからね。
総論としてですが、龍は「躍動」ではなく「流れ流され」という感じで雲間をゆっくりたゆたっています。珠も随分遠くにあり、それは浮き世における理想と現実の乖離をあらわしたように感じます。限界状況に嫌気がさし惰性にある龍を無理くり宝物でガードしているかのようですね。蝙蝠もあさっての方向へ飛んでいってしまい、戻って来る気配は感じられません。おまけに引き波は厄から逃れんとする脱兎を連想させ、処女のような龍と対応します。以上のことから前掛との対比観賞は最高で、「平温リビドー」とでも言うべき生の静かな躍動を含み見せイケメン龍が主張する前掛に対し、後掛は「受動的ニヒリズム」をかもし出し最終をゆく鉾の後姿を飾る幕として味のある去り方を演出します。こういう雰囲気の幕はやはりめずらしく、それだけに稀有の幕かと思いますが、なにぶんアニミズムに属する神道の国柄で天明の事象を経験したことから「自然には勝てん」と達観した挙句の一作ということにしておきましょう。後姿ということに関しては、この幕の後に緋羅紗地肉入り雲龍文の大楫がつきますので、これを引き立たせる為主張を抑えたのかもしれません。
色目ですが前掛と同じく紅花由来の紅地に金糸・色糸で龍・雲・波・宝を表現しています。蝙蝠と法螺はこげ茶or茶金、龍の火焔は薄いブルー、その他雲や岩なども殆ど青系で清涼感に満ちています。紅地の色に退色は見られますが、前掛ほど焼けてはおらずまだ色彩を残しています。これは外に出ているとき=(鉾に掛けている時)、艫屋形の下にあるため、被紫外線量が少なかったゆえと思われます。ただ、織りは前掛のほうが緻密で、後掛は傷みが目立つことが残念です。
最後に余談ですが、八百万の神々のいる日本は全国各地にさまざまな祭礼が存在します。その祭礼には数多の美術工芸幕が用いられていることでしょう。そういった幕類のレプリカ品をこしらえる事は、原品の細見調査にもつながり非常に意義の大きいことだと感じております。この記事を拝見下さった方で、祭礼幕の維持に関わられている御町でしたら是非にとお勧めしたく、勝手ながら申し上げさせていただきます。
大船鉾細見 前掛
前掛 ~紅地雲龍青海文綴織~
当大船鉾町には、本装用幕がほぼ完品で残っています。不思議と第二装が1つもないのですが、それは他頁にゆずるとして、長らく当町先達が守り、伝えてきた幕類懸装のうちから抜粋して素人目線ながら細かに観賞してみようと思います。
この前掛は舳先下部に掛けられるもので、鉾の正面をきるものです。爪綴織ですが原産は中国か日本かわかりません。図柄は中国由来の龍のいわゆる古典パターンです。ただ、龍も文様も最下の岩も線タッチが非常に柔らかく、南画のテイストが入ったかのように思えます。特筆すべきはメインの龍(通称親玉)の胴~尾で、ひねりの途中にまた軽いくびれをつくるなど凝った図柄です。とはいえ、耳と角の位置関係や体のひねりをウロコの向きで強調するなど、この手の図柄の王道技法が主流でしょう。この幕には三つの龍が描かれており、議論として「もっと大きな幕を切り取って仕立てた可能性」がいわれます。ただ私的には、大船鉾町によるあつらえの可能性が高いと思います(この場合は西陣製が確実)。理由として①この細長い箇所に完璧に収まる三つの龍のある大幅の幕を見た事が無い、②下の二匹の目線が合っている、③下の青海波~草花~雲とつじつまが完結していること、④どうみても継ぎがない、などです。しかし一点、謎となるのが画面左中やや下の巻物です。これはいわゆる「宝尽し」柄のひとつで、法輪や蓮華、法螺、白蓋などとともに散らせて描かれるもので、巻物は「智」の象徴です。これが不意にぽつんと描かれていることは深い謎です。そういう意味では大幅の可能性も拭いきれません。ところが最下の龍の口から出たような文様を霊芝あるいは丁子と見切るなら全てが完結します。曰く親玉+珠・2番目が巻物を掴もうとする・3番目が霊芝or丁子を喰らおうとする、となりますね。珠は親玉龍のくびれにあり、珠を抱き天下安んずるの意味でしょう。巻物を掴んで「智を得ようとする尊さ」、霊芝or丁子を喰らって「身体の健康」を表します。霊芝なら中国製、丁子は日本固有の宝紋(諸説あり)なので、これすなわち日本製ということになります。ここで興味深いのは巻物・霊芝or丁子に向かって腕をいっぱいに伸ばす龍の姿で、それらを得ようとする健気さをあらわすことで「自分たち(人)に備わってないものだから、鋭意これを得るべく精進しなされ、もしくはその状態におかれた人たるものの儚さを伝える」というようなメッセージを込めた幕と見ることができます。ただしこの幕の端には他にも緋幕にかくれつつ不明な宝紋らしきものが散見されるのでなお研究を要します。皆様も本番でゆっくり観賞していただきたく思います。
次に色目ですが、地色は紅花由来の緋色です。とはいえ退色の加減から推察して霰天神山後掛(濃緋)~長刀鉾見送り(前者よりやや淡い緋)ほどの色ではなくもう少し淡い(といってもほぼ赤い)ように思えます。雲は青~浅葱・緑~山吹まで多彩ですが、この図柄によくある藍や群青のようなキツい色はありません。柄の色目としては緑がかった色が多いと思います。龍の顔はおさえた金、ウロコは根本が薄グリーン、大部分が金、フチが紺~黒、炎はコクのある鮮やかな緑となっています。顔と背びれは輝くほど美しい白色で顔は薄~いブルーが覗いています。龍の手足はこげ茶と思われます。最下部の青海波はこの幕中もっともにぎやかな箇所で、五色の波に白波がのります。左からうす紅+ピンク・濃青+薄ブルー、岩を挟みグリーン+萌黄・金or黄色+山吹の波です。もっと細見したら、白い部分は縞文様になっているかもしれませんね。
簡単ですが前掛については以上です。
なお、個人蔵ですが模型にて原色その他を復元したものを作っています。本年のお祭りには披露できるかと思いますので、広くご覧頂けたらと思います。
大船鉾考証 礎石
祇園祭の山鉾は古来より、毎年町内の決まった位置に建てます。このため基礎四本柱の建方位置となる場所に四つの石を埋め込み印とします。町会所と鉾をつなぐ桟橋の位置が決まっていますため、多くの山鉾が町会所前に埋め込んでいます。
この礎石は山鉾を持つ町にとって以下の3理由により意外と重要です。①鉾建て時の目印として、連年安全にすえつけられる(真木のある鉾はこれを起こしたり倒したりする時に安全な導線を確保しています)。②曳き初めや巡行から帰った時、基礎四本柱とこの礎石がぴったり合うように留められれば、自動的に桟橋がかけられる。③祭り期間以外の時節において、いつもこの礎石が町中の目に触るることで、鉾を世襲する誇りと気概を楊躍させ、町中の団結心を象徴する。(遠路よりの客人・友人を案内して、また誇らしい気分に浸るものです。あとお地蔵さんも)③はいわば「無限パラノイア・ノスタルギヰ」喚起の装置として面白く機能していると思います。
さてこの礎石、「地面に石が埋まっている」という認識ですが、一体どのくらいうまってるのでようか?近代に地道からアスファルトに変わるとき、一旦この礎石を掘り起こした時のことを記憶している古老の伝によると、「地中に2~3尺(60cm~90cm)くらいは埋まってゐて、あたかも歯茎に植わる歯のやうであった」とのことです。そりゃああまり浅かったら雨季のぬかるみを眺めせしまに位置がずれたりしますものねぇ。
いよいよ町内の団結なったわが町としても、用意ができ次第この礎石を埋め込みたく考えております。
御神体衣装製作見学会
今日は西陣織工業組合に依頼した御神体衣装製作の見学会がありました。
新調する衣装は神功皇后様顕紋紗の狩衣、磯良神の厚板の2つです。
平成23年度京都府の伝統工芸若手育成事業補助金(3/4補助・上限500万円)の祇園祭枠をお与えいただきました。
全ては織り上がっておりませんでしたが、制作者の大変な苦労と努力の下、素晴らしい織物が出来ている事を確認し、今年の夏には神功皇后様の神々しいお姿をご披露させていただける事を確信いたし、とても心躍る気分になりました。
写真も撮ってきたのですが、今はまだ非公開です。すみません。
と言いますのは、まだ衣装になっていないからです。
仕立上がった状態の狩衣・厚板でプロデュース頂いておりますので、反物のしかも一部の状態でお見せするのは時期尚早と言えます。
「確実に将来、文化財になる物です」と社長が仰っていました。
連合会吉田理事長、監修頂いております林先生にご足労頂きました。
本当にいつもありがとうございます。
春以降のお披露目になると思います。どうぞ、お楽しみにお待ち下さい。