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唐櫃巡行
この度、大船鉾は本年平成24年(2012年)祇園祭山鉾巡行に「唐櫃巡行」という形で巡行行列に参加させていただくことになりました。
元治元年(1864年)の禁門の変により木部など多くを焼失、明治3年(1870年)に鉾再建を誓い「唐櫃巡行」を行って以来、142年ぶりの巡行参加となります。
これは、「昨年秋大船鉾木部櫓部分の披露を終え、私共には後戻りという言葉はない。目指すは平成26年(2014年)の大船鉾巡行。今年から唐櫃巡行を行い、内外に私共の必ず成し遂げるという覚悟を示すと共に巡行を経験する時期に来ている。また、完全復興には更なる皆様のご支援が必要であり、皆様方に私共の現状を広く認知して頂こう。」という思いからの決起であります。
2月初めの保存会の臨時総会で決定し,正式に祇園祭山鉾連合会に申し入れ致しましたところ、この度、参加内定の連絡を頂きました。
「唐櫃巡行」では、神事を装飾品を居祭りを受け継いで頂いた先人の思いを全身に感じながら、都大路を闊歩致したく思います。
そして、必ず近年中に鉾を渡します事を私共の祭神である神功皇后様にお供し八坂の大神様にお約束致したいと思います。
業務執行理事 木村 宣介
後祭巡行について
前回「大船鉾考証 廿四日巡行の様子」でも書きましたが、後祭巡行復活の検討が活発になされています。先日「後祭巡行を考える」と称したシンポジウムが、後祭山鉾の関係者を中心に60名近い参加者の中で開催されました。祗園祭の山鉾巡行は昭和41年に前祭と後祭りの合同巡行となり、すでに50年近くが経過しました。そんな中、山鉾関係者にも一般の方々にも山鉾巡行は7月17日だということが浸透してきていて、いまさら後祭り巡行なんか本当にできるのか、と考える人も多いかもしれません。そうしたことから、多くの関係者が、お互いに忌憚のない意見を出し合おうといった趣旨でのシンポジウムでした。その中でわたしたちの四条町大船鉾にも意見を求められました。四条町は禁門の変で鉾を失った後、町内で居祭を続けて参りました。そして町内保存会員の高齢化に伴い、その居祭さえ存続できなくなったときも、御神号と神面を祀る神事だけは途切れることなく連綿と続けられてきました。四条町では神事こそが最も大切にされなければならない、という考えを持っています。鉾の復興も、それが四条町の神事を未来永劫守り続けていくことになるからだと考えています。そのことから、大船鉾は後祭り巡行の復活を支持する立場であると、シンポジウムの席上で答えさせていただきました。そもそも日本古来の祭は、そのひとつひとつの神事・祭事に意味があり、それを行う理由が存在します。祇園会の山鉾巡行でも、前祭と後祭があることや巡行のコース、巡行順位(鬮取らず)など、すべてが意味のあることだと思います。古より600年以上にわたって行われてきたこれらのことが、社会状況の変化によりここ50年ほどの間に変えられてきてしまいました。それは、ただ単に形が変わってしまっただけではなく、その精神までも変えられてしまったと言えるのではないでしょうか。原理的にいうなら、前祭の巡行は寺町を南行するべきであるし、後祭巡行列の先頭は橋弁慶山であるべきなのです。ところが巡行コースなどはすでに物理的に難しい状況にありますし、その他でもすべて以前の形に戻すことが難しいことがらはたくさんあります。しかし、そんな中でも大切に守り通さなければならないことはあると思います。それがこの後祭巡行であると、わたしたち大船鉾では考えています。ご存知のとおり祇園会の山鉾巡行は、八坂の神様が神輿に乗られて市中を渡御されるときに、あらかじめ市中の疫を集め清浄化するために行われていたものです。なので、八坂神社から御旅所にお出ましになる遷幸祭の7月17日(旧暦6月7日)と、御旅所から八坂神社にお帰りになる還幸祭の7月24日(旧暦6月14日)に山鉾巡行がなければ本来はおかしいのです。シンポジウムでは、後祭の存在感を示すことができれば24日巡行にこだわらなくてもよいのではないか、という意見もありましたが、わたしたち後祭の山鉾が示すべきは存在感ではなく、存在理由(レゾンデートル)なのではないでしょうか。そしてそれは間違いなく「24日に山鉾を渡す」ことに他ありません。
追)とは言うものの・・・大船鉾としては、1回だけでもいいから33番目の大トリを巡行したり、船鉾が二つ並ぶとこを見てみたい、という誘惑にもかられるのですが(^_^;)
四条町餅切伝説
四条町では、以前居祭が中断されていた際も、祗園祭期間中はご神面とご神号を祀る神事は連綿と続けられていました。この神事では、他のご町内と同様に榊やお供え等の設えも定められており、例年どおり執り行われていました。そのお供えの中に鏡餅があります。このお鏡さんは、お祭りが終わると町内保存会員の軒数に切り分けられ、お下がりとして授けられます。ところが、数日間経った餅は表面が硬くなってしまっていて、当時高齢者ばかりであった保存会役員にとって、この切り分ける作業がとてもたいへんで、いわば四条町の祗園祭に於ける最大の難事業でした。
それが、お囃子が復活し、公募により囃子方の人数が増えるにつれ、その作業は若くて力のある囃子方が請け負うようになり、あれほどまでにたいへんであった作業があっという間に終わるようになりました。そしてこのことは町内の長老たちに、とっても大きなインパクトを与えることとなりました。これがひとつのきっかけとして、大船鉾のお囃子を復活させようとしたとき、どちらかというとそのことに肯定的でなかった当時の長老たちも、囃子方がお囃子だけでなく、神事の準備やあとかたづけにも積極的に関わっていく様子を目の当たりにすることで、お囃子や囃子方に対する姿勢が変化していったように思います。この15年の間に、まさに空気が変わった。そんなふうに感じています。
大船鉾が150年ぶりにその雄姿を都大路に現すことができるその陰には、この餅切り物語があったればこそと、未来永劫四条町に語り継がれんことを切に願うものであります。
お火焚き祭
四条町では恒例のお火焚き祭がありました。
祇園牛頭天王の御神号の軸、神功皇后御神面をお祀りし厳粛に神事を執り行いました。
四条町のお火焚き祭は町内神事の一つで、五穀豊穣を感謝し、火を取り扱う機会が多くなるこの時期に、火の安全をお願いする儀式と伝わっております。
神事行事として神事(現保存会)によって執り行われていた時期もあったようですが、現在は四条町内会の行事となっております。
祇園祭以来のお出ましとなる御神面に大船鉾櫓木部部分の完成を報告いたしました。