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鉦方飾り房新調
大船鉾考証 勾欄について
先日は欄縁も完成し、ヨドバシビル文化財展示室のではきりりと引き締まった大船鉾の姿をお見せすることができました。ご覧いただいたでしょうか?お越しいただいた方は欄縁の側面中央に数箇所の切込みが入っているのに気付かれたかと思います。ここに出桁がはめられ、その上に勾欄が組まれるのです。
勾欄は高欄とも書き、建築に取り付けられた欄干のことです。祇園祭では両船鉾と綾傘鉾の台車に存在します。細かいことを言うと橋弁慶山・浄妙山の橋の欄干、八幡山・油天神山・霰天神山・鯉山・の社殿(保昌山の紫宸殿にはないようです)、蟷螂山の御所車にもありますがいずれも山鉾本体に付属するものではありません。本来、建築的にはないほうが不自然なのですが、山鉾の古い形は欄縁部分を覆うように織物を掛けていたので、欄縁ができた後も勾欄を設けなかったのではないでしょうか。また、構造上欄縁よりも床が低く張られていたので必要なかったとも思われます。さらに、囃子方の人数が増え、欄縁に腰掛けて囃子をするようになったのも理由のひとつに挙げられます。綾傘鉾の台車は近年のものなので装飾的につけられたのでしょう。ほかの祭礼の曳山には勾欄があるものが多いですが、祇園祭の影響が大きい大津祭(月宮殿山には設置)、亀岡祭(蛭子山には設置)の曳山・舁山には勾欄を設けていません。伊賀上野天神祭では9基のうち6基が設けており、京都から距離の遠さが偲ばれます。余談ですが、三条の某精肉店のシンボルマークが長刀鉾ですが、勾欄が描かれておりちょっと可笑しいです。
前置きが長くなりましたが、両船鉾の勾欄は装飾的にも目を引くものとなっており、側面の張り出しから艫にかけて設置されています。さらに、艫櫓の上下にも設けられています。複雑な屋根の形もそうですが、これらの華麗な装飾は、船鉾が御座船を模したことから来ると考えられます。鉾柱を櫓に立て、屋根を掛けていった鉾との大きな違いです。
わが国の寺院建築の初期は法隆寺の卍崩しの勾欄など、中国・朝鮮の影響を受けた意匠が用いられましたが、和様が成立すると「擬宝珠勾欄」と「刎勾欄」の二種に大別されるようになります。「擬宝珠勾欄」は角の柱が丸柱で擬宝珠のキャップを嵌めたもの。「刎勾欄」は角で横柱が上に刎ねる形で組み合わされたものです。また、前面を空ける場合に蕨手という曲線で先を納める意匠もあります(名古屋型山車や仏壇など)。角以外は原則共通で、横柱を下から地覆・平桁・架木と呼び、一番上の架木は丸柱が原則です。
張り出し部分は船鉾・大船鉾とも共通で、内側の柱が擬宝珠、外側が刎勾欄となっています。船鉾の艫櫓の勾欄は上層が朱塗りの刎勾欄、下層は黒塗りなのですが柱は角柱となっています。室町時代ころから中国風の意匠が取り入れられるようになりましたが、江戸時代になると自由に意匠が組み合わされます。その一例といえるでしょう。また、船鉾には旗・吹流しを立てる衝立が設けられ、艫櫓の勾欄はその角柱に続いているので意匠を合わせたのかもしれません。大船鉾の艫櫓は衝立もなく、上層擬宝珠勾欄、下層刎勾欄のシンプルなものになる予定です。
面白いのは張り出しと艫櫓の間の勾欄です。船鉾は張り出しと同じ朱塗りの勾欄なのですが、大船鉾のこの部分はいずれの図も板状に描かれています。金箔地に黒塗りの柱型が張り付いているようにも見えますし、彫刻や模様が入っているようにも見えます。今回の復元では素木に柱型の入った板状になる予定ですが、意匠は今後の検討課題です。ひとつの仮説を述べさせていただくならば、この部分は中国風を意識していたのではないでしょうか。町内の先人は、唐様の意匠に「この船は海を渡って帰ってきたものだ」という思いを込めたのかもしれません。
なお、これらの勾欄は、屋形とともに来年の巡行復活を前に素木にてお披露目させていただきます。どうぞお楽しみにお待ちください。また、将来は塗りを施し、金具を打たせていただきます。勾欄は、上記の板状の部分以外はすべて朱塗りの予定です。ご協力と応援をどうぞよろしくお願いいたします。