- 2012年01月26日
後祭巡行について - 2012年01月14日
大船鉾考証 屋根の意匠 - 2012年01月02日
謹賀新年
2012年1月アーカイブ
後祭巡行について
前回「大船鉾考証 廿四日巡行の様子」でも書きましたが、後祭巡行復活の検討が活発になされています。先日「後祭巡行を考える」と称したシンポジウムが、後祭山鉾の関係者を中心に60名近い参加者の中で開催されました。祗園祭の山鉾巡行は昭和41年に前祭と後祭りの合同巡行となり、すでに50年近くが経過しました。そんな中、山鉾関係者にも一般の方々にも山鉾巡行は7月17日だということが浸透してきていて、いまさら後祭り巡行なんか本当にできるのか、と考える人も多いかもしれません。そうしたことから、多くの関係者が、お互いに忌憚のない意見を出し合おうといった趣旨でのシンポジウムでした。その中でわたしたちの四条町大船鉾にも意見を求められました。四条町は禁門の変で鉾を失った後、町内で居祭を続けて参りました。そして町内保存会員の高齢化に伴い、その居祭さえ存続できなくなったときも、御神号と神面を祀る神事だけは途切れることなく連綿と続けられてきました。四条町では神事こそが最も大切にされなければならない、という考えを持っています。鉾の復興も、それが四条町の神事を未来永劫守り続けていくことになるからだと考えています。そのことから、大船鉾は後祭り巡行の復活を支持する立場であると、シンポジウムの席上で答えさせていただきました。そもそも日本古来の祭は、そのひとつひとつの神事・祭事に意味があり、それを行う理由が存在します。祇園会の山鉾巡行でも、前祭と後祭があることや巡行のコース、巡行順位(鬮取らず)など、すべてが意味のあることだと思います。古より600年以上にわたって行われてきたこれらのことが、社会状況の変化によりここ50年ほどの間に変えられてきてしまいました。それは、ただ単に形が変わってしまっただけではなく、その精神までも変えられてしまったと言えるのではないでしょうか。原理的にいうなら、前祭の巡行は寺町を南行するべきであるし、後祭巡行列の先頭は橋弁慶山であるべきなのです。ところが巡行コースなどはすでに物理的に難しい状況にありますし、その他でもすべて以前の形に戻すことが難しいことがらはたくさんあります。しかし、そんな中でも大切に守り通さなければならないことはあると思います。それがこの後祭巡行であると、わたしたち大船鉾では考えています。ご存知のとおり祇園会の山鉾巡行は、八坂の神様が神輿に乗られて市中を渡御されるときに、あらかじめ市中の疫を集め清浄化するために行われていたものです。なので、八坂神社から御旅所にお出ましになる遷幸祭の7月17日(旧暦6月7日)と、御旅所から八坂神社にお帰りになる還幸祭の7月24日(旧暦6月14日)に山鉾巡行がなければ本来はおかしいのです。シンポジウムでは、後祭の存在感を示すことができれば24日巡行にこだわらなくてもよいのではないか、という意見もありましたが、わたしたち後祭の山鉾が示すべきは存在感ではなく、存在理由(レゾンデートル)なのではないでしょうか。そしてそれは間違いなく「24日に山鉾を渡す」ことに他ありません。
追)とは言うものの・・・大船鉾としては、1回だけでもいいから33番目の大トリを巡行したり、船鉾が二つ並ぶとこを見てみたい、という誘惑にもかられるのですが(^_^;)
大船鉾考証 屋根の意匠
祇園祭の船鉾・菊水鉾以外の鉾五基と曳山三基は妻入りの切妻屋根となっています。これは屋根型としては最もシンプルな構造です。このことは、車輪をつけた櫓に鉾を立て、囃子が乗るようになってから日よけの屋根をかけたという歴史を表しているものと考えられます。菊水鉾の唐破風はその発展型といえるでしょう。それに対し、現在ある船鉾の屋根は複雑です。入母屋平入の屋形の前に千鳥破風、後ろには軒唐破風を設け、さらに前部に唐破風を差し出すという構成になっています。船鉾においても、かつては日よけの屋根を設けるだけの簡素なものが江戸時代末期、豪華に改装されました。船鉾は鉾柱を持たないため、自由な意匠を採用することができたのでしょう。御座船のイメージで作られたのかもしれません。
さて、わが大船鉾もかつては簡素であった屋根を江戸時代末期に豪華に作り直しています。ところが、その形状についてはいくつかの説があります。まず、このホームページの表紙にもなっている幸野楳嶺描くところの大船鉾は妻入の入母屋破風(むくり屋根のようです)の左右と後ろに軒唐破風を設け、前部に唐破風(と思われる)を差し出しています。現存の船鉾が入母屋平入であるのに対してこれは妻入です。ぜひ船鉾の写真と見比べてみてください。それに対し、昭和7年に描かれた表紙右下の掛け軸では、前後の向唐破風を跨ぐように中央(帥殿部)に切妻破風を置く、という構造です。さらに、幕末~明治に描かれた個人蔵の屏風でも中央の屋根(帥殿部)が切妻造となっています。この屏風は各山鉾の意匠が精緻正確に描かれているため、信憑性が高いとも考えられます。(幕類衣装だけでなく、函谷鉾のみ稚児人形で描ききっているなど正確無比な点が多い)他方参考として文化11年の「増補祇園御霊会細記」に「二重屋根唐破風銅瓦。屋形組天井柱六本」とありこれをどう見るかは見解のわかれるところです。
上記の屋根に似た構造を持つものに、大阪天神祭に出される天満市場のダンジリがあります。これは幕末ころに作られたもので、他のダンジリが二つ屋根であるのに対して「三ツ屋根地車」と呼ばれ、唯一の意匠です。中央屋根に軒唐破風を持つところも上記屏風の大船鉾と共通しています。こちらは標準型のダンジリの発展型と考えられますので、おそらく大船鉾との関連はないでしょうが、偶然同じ意匠が同じ時期に、京都と大阪で採用されたとすれば興味深いですね。
大船鉾の屋根の製作はこれからの課題です。どの形がふさわしいかを熟慮して復元する予定です。どうぞ楽しみにお待ちください。
謹賀新年
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年は大船鉾にとって歴史に残る一年となりました。
祇園祭山鉾連合会への正式参加が認められ、10月には櫓船体木部部分の新調披露を行う事ができました。
これは、ひとえに皆々様のご支援によるものであると心より感謝申し上げます。
実際の復興大船鉾が部分的にでも出来上がり、実際に目で見る事ができ、信じて行動を起こす事の大切さを改めて思い知る事となりました。
私共は休むことなく、第一目標である2014年の完全復興を目指し歩んで参ります。
私たちの思いは「大船鉾神事を未来永劫続ける事」であります。
一人でも多くの方に「大船鉾を巡行で見たい」と思っていただけるように、私たちは復興事業に邁進していきます。
2012年は神功皇后様御神体衣装新調披露を予定しております。これは、2011年度の京都府の山鉾連合会枠の補助金制度を利用させていただいた事業です。
常設展示場をお貸しいただいている京都市、京都府も山鉾連合会も私共の復興に本気で後押しいただいております。
本年も大切な年となります。一同気合をい入れて出来る限りの力と知恵を振り絞りたいと考えております。
ご支援の程よろしくお願い申し上げます。
四条町大船鉾保存会一同