- 2016年11月07日
大船鉾考証 町会所について
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2016年11月アーカイブ
大船鉾考証 町会所について
大船鉾を出す四条町は平成27年に町会所を取得し、現在改装を行っております。監修は京町家作事組、設計は末川協氏、作事は大船鉾手伝い方の辻工務店の手に依ります。
祇園会における山鉾各町は、「町会所」(ちょうかいしょ)なるものを所有します。もとい、かつては京帥(けいし)中の各町が1軒の町会所を有していましたが、明治の改革時期に登記上の所有権問題が持ち上がり、多くが失われ、山鉾町のみこれを死守した経緯があります。
町会所とは、今様に言うと公民館に近いもの。自治都市京都の最小公約的自治組織たる「町」を構成する「町中」(ちょうじゅう)、その代表者たる「年寄五人組」の名においてこれを所有しました。そこでは「歳旦の慶賀」をはじめとする例年の町内行事・寄合(座)が行われます。その折、簡単な菜飯が供されました(町汁)(ちょうじる)。他に「連歌」「俳諧」「茶道」「講談」「書」「画」「琴」「棋」などのサークル活動(町講)(ちょうこう)が行われ、あるいは不定期に、「バザー」」や「できの悪い子の補習授業」などもひらかれたようです。
山鉾町においては、例年の町内行事の筆頭に「祇園会」があります。町会所土蔵に「町宝」たる山鉾一式を大切にしまい、管理する。「町宝」ゆえに町中以外、土蔵への出入を禁じました(土蔵の非公開)。
町会所の位置は、町内の中央付近にあることが殆どです。山鉾建方の多くが町内の中央近くにあるのはそれがためです。位置は古来よりの町割で定まり、それを保守し続けた結果ですが、例外があります。
① 町内の大店がカネにモノを言わせ敷地拡張→町会所を併呑→新たな町会所を別位置に提供。
② 明治以降、行政施策として巨大施設建造の要から、町会所を含む土地を取得→町会所がなくなる。
③ 町内在住Aさんが駿河国へお引越しの為、自宅を売りに出す→まずお隣に声をかける→お隣断る→Aさん、差配人(江戸時代の不動産業者)に委ねようとする→町内、氏素性のわからぬ人が入ってきては困るため町内で買い取り(一時町家(ちょういえ)となる)(町会所のことを町家(ちょういえ)ともいうが、この経緯の一時取得物は特に「会所」ではないため呼称分けしておく)
四条町においては、元治大火で鉾本体を焼失した後、ほどなく再建を企図しましたが、同時期に「学校設立」の機運高まり、鉾再建を未来の四条町の子供たちに託す事とし、学校建設を優先しました。彼らの子供の子供の子供たちの代を待ち、「鉾復興」その遺命が果たされた次第です。
現在の「友禅会館」が、いにしえの会所地です。おや?ずいぶん間口が広いのですね!と感じられるかもしれません。そう、他の山鉾町会所を見回るかぎり、間口は四条町のそれの半分です。それもそのはず、かつて京兆(けいちょう)における四条町は、「四条町の辻」と聞けば童でもわかる、下京の中心でした。現在の四条河原町高島屋前という感じです。「四条町の辻」を中心に描いた京都地図もたくさんありました。ということで、「四条町」という自治組織と、「下京」という自治区を合わせたhigh rank公民館、それが四条町々会所なのです。蔵は2つあり、1つは大船鉾、もう1つにはおそらく、「下京」連合をまとめるための用具が数多(あまた)入っていた可能性が高いです。将来、祝!大船鉾の土蔵復活!となると、1つ考えねばならぬ事があります。土蔵正面の扁額になんと記すか。多くの山鉾土蔵には右から左への横書きで○○鋒・○○山となっています。当「大船鉾」は現在呼称であり、その昔は「しんくうこうごうの大船」やがて「船」若しくは「十四日ノ船」とされます。「しんくうこうごうの~」は長すぎるし、「船」ではものたりず、「十四日ノ船」は前船との混同を避ける便宜上の呼び名でありましょう。はて、「大船鋒」あるいは「四條町」ではいかがか。
祇園会において「町会所」は神事行事を執り行う拠点となります。
吉符入り式:床の間軒裏には幔幕掛けのフックが拵えてある。床の間のある間(ま)は比較的広く、参拝する旦那衆が一同に会するに足る。そこと、オクノマとツギノマとの間(あいだ)に敷居があり、作事方棟梁は敷居を隔てて参拝する慣わしである。
二階囃子:バックヤードに囃子方詰所があり、そこで着替える。雪駄は清々(すがすが)しく並んでいる。表の間の天井に、鉦を吊るす竹棒が造作してある。また別場所に、締太鼓を吊るし休ませる造作がある。
宵山:会所飾りの席に変貌する。ご神体を安置する位置が決まっており、幔幕などしつらえのための造作が、付近になされている。旧懸装類をお飾りするための造作も各所にしてある。鉾桟橋が出るよう、表側壁も取り外し組み立て式に造作してある。また、バックヤードは保存会員の詰所・休憩所・寄合所となるほか、巡行衣装の用意や客のもてなしなどに使用する。別に囃子方詰所の部屋もある。平生は楽しげな鉾拝観客を静かに見守るが、ひとたび雨など降れば、ビニールを担いだ男衆がドタドタ走り回り、にわかに殺気を帯びる。
巡行:早朝から、あらゆるセクションの人々が入り乱れ、阿鼻叫喚。やれやれ巡行に出発したあとは、紋付き姿の留守居役が桟橋の上でお茶を飲みながら四条新町の巡行の様子を眺めている。バックヤードではご婦人方が、鉾帰りの迎えの準備をして下さっている。概(がい)していっときの静寂である。昼、鉾、帰る。千秋万歳(せんしゅうばんぜい)! また大勢が行き交い、上へ下へと大忙し。日に焼け赤い顔をして懸装類をしまう者、慌てて着替えたかTシャツを裏返しに着て巡行衣装を回収しクリーニング準備している者、巡行道中で壊した看板などあればそちらへ謝りに行く準備をする者、ハチマキ跡が寝ぐせのようになったまま作事方へ請負料支払い計算する者、様々である。
8月初旬、町会所で祭事反省会をしたあと足洗へ。…皆さんよいお年を!と挨拶を交わし家々へ帰ります。
改修完了は平成29年春予定です。オモテの軒は大和葺き、巴瓦に四条町紋が入り、外部内部とも伝統の京町家を新造したように見違えた姿で、皆様をお迎えできる事、一同楽しみにしております。