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大船鉾とは
大船鉾の始まりは、四条町では「祇園社記」の記事に基づき、嘉吉元年(1441年)の建立とされています。「康富記」の記述から、応永29年(1422年)にはすでに存在したという説もあります。いずれにしても応仁の乱以前からの古い歴史を持っています。その応仁の乱(1467年)には他の山鉾とともに焼失、23年後の明応9年(1500年)に再興したといわれています。しかし、その年の鬮順の記録には出ていないので、完全な復興は数年後かもしれません。その頃は人形だけを乗せた比較的簡素な「舟」でしたが、江戸時代に入り、次第に装飾が加えられ、囃子も加わって、「船鉾」と呼ばれるようになりました。
天明の大火(1788年)で神功皇后の御神面を残して焼失、文化元年(1804年)には以前にも増して豪華な鉾として再興されました。現在残る懸装品や金幣はこの後に整えられたものです。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変により木部など多くを焼失、以後は休み鉾となります。
その後は御神体と懸装品を飾るだけの居祭りを行ってきましたが、平成7年(1995年)にはそれも休止、神事のみとなりました。しかし、平成9年(1997年)には宵山の囃子が復活、平成18年(2006年)には飾り席も復活し、平成24年(2012年)には明治3年(1870年)以来142年ぶりに唐櫃による巡行復帰を果たしました。そして平成26年(2014年)7月24日(この年より後祭が復活)、大船鉾は150年ぶりに復興を遂げ、祇園会の巡行列の掉尾を飾りました。
祇園祭には神輿をお迎えする「前(さき)の祭」とお送りする「後(あと)の祭」があり、それぞれに山鉾が巡行します。新町通りの綾小路をはさんで南の船鉾は前の祭に、北の船鉾は後の祭に巡行していました。二つの船鉾は同時に巡行することがなかったので、江戸時代以降はともに「船鉾」と呼ばれていました。区別する場合は祭の日程から「十四日船鉾」と呼ばれていました(当時は旧暦の6月14日に後の祭が行なわれていました)。
居祭りを行うようになってから、町内では「凱旋船鉾」と称するようになりました。これは、前の祭の船鉾が神功皇后の出陣を表すのに対し、後の祭の船鉾は戦に勝った凱旋の船を表すものであることによるものです。昭和59年(1984年)の伝統工芸博覧会において凱旋船鉾の復元展示(レプリカ)が行なわれましたが、ちょうどそのときに韓国の全斗煥大統領が、第二次大戦以後韓国の大統領としては初めて訪日されることになり、さらに上洛されるということで、国際情勢に鑑み四条町が名称を変更することにしました。その際、「祇園社記」に記述されている「大船」の呼称をもとに、「大船鉾」と称することとしました。 町内には前の祭の船鉾より大きかったという伝承もありますが、同時に巡行したことがありませんので、真偽の程は不明です。
四条町は新町通にあり、北は四条通、南は綾小路通です。北側の通り名を町名とするのは、山鉾町では新町通のみに見られ、当町のほか、八幡山の三条町と北観音山の六角町があります。新町通には豪商や武士の屋敷などが立ち並ぶたいへん栄えた通りで、四条町も豊かな町でした。そこで、町内が北四条町と南四条町に分かれ、一年交替で巡行を受け持っていました。北四条町が出すときには舳先に龍頭を掲げ、南四条町が出すときには御幣を掲げて巡行していました。南四条町の金幣は残されていましたが、北四条町の龍頭は元治の大火で焼失したため、復興初年と二年目は金幣を掲げての巡行となりましたが、平成28年(2016年)に龍頭を復元(新調懸装品の項参照)し、これより古に倣い隔年での巡行を致します。現在、龍頭は存在しませんが、南四条町の金幣が残されています。明治以降、南北の区別は無くなりました。船鉾町(当時袋屋町)や岩戸山町でも南北に分かれていたようです。
山鉾町は祭礼に際して協力してもらう寄町を持っていました。
北四条町の寄町は、
東洞院御池下る笹屋町、柳馬場二条下る等持寺町、
高倉四条上る帯屋町、高倉錦小路上る貝屋町の四町
南四条町の寄町は、
東洞院御池上る船屋町、柳馬場御池上る虎石町、
二条東洞院東入る松屋町、二条高倉東入る観音寺町の四町
なお、かつて船屋町から鉾を移したという伝承があります。祗園御霊会細記にも
「此鉾いにしへ東洞院御池上ル町にありけるよし、夫故今も船屋町と伝」とありますが
続いて「此説甚不審あり、猶可考」との記述もあり、これについては今後の研究が待たれるところです。
神功皇后は仲哀天皇の后で応神天皇の母です。応神天皇を身ごもりながら海を渡り、新羅・高句麗・百済を平定したといわれています。祇園祭では占出山・船鉾・大船鉾が神功皇后を祭神としています。戦のゆくえを占うために鮎を釣られた姿を表しているのが占出山、戦に出陣する船を表しているのが船鉾、戦に勝って凱旋する船を表しているのが大船鉾です。そのため、船鉾の御祭神は鎧姿ですが、大船鉾の御祭神は鎧を脱ぎ狩衣をまとったお姿です。また、船鉾には渡海の無事を守るために住吉明神・鹿島明神・安曇磯良の三神がお供されています。
大船鉾の御祭神である神功皇后は元治の兵火の際にも難を逃れました。とくに御神面は天明の大火をも免れたもので、町内の人々により大切に守られてきました。宵山の際には飾り席にお祀りしています。